店声仁語−6− ( 2003.6.〜2003.12.)

店声仁語:目次・・・

★今年もあとわずか、皆さんの1年は如何でしたでしょうか。きっと良い1年だったと思います。私の1年は、何と早い1年だったろうかと言う感じです。思いもよらなかった1ヶ月の入院生活は、家族には心配をかけましたが健康のありがたさをあらためて知り、いろいろと考えることの多い貴重な時間を持ったと言う意味で良い経験でした。今、健康に不安がないわけではありません。抗ガン剤を飲みながらも転移の心配はやはり消すことが出来ませんが、全快を信じ前向きにポジティブに生活することが何よりの良薬と思っています。健康について、人生について考える時間を与えてくれた1ヶ月の休養と思ってこれからの生活に生かしていきたいものです。来る年の皆さまのご健康とご多幸を心からお祈り致します。

2003.12.26.

 


★「葉っぱ持ってきました」
 「葉っぱって木の葉ですか?」

木の葉 お客様が大事そうにバッグから出したのはまさに木の葉でした。椿の葉に似た肉厚の葉は「多羅葉・タラヨウ」というのだそうだ。
「何か字を書いてみて、昔はこれに便りを書いていたそうよ。洒落たラブレターよね」
書けなくなったボールペンで葉の裏にそっと書いてみると、すぐに黒く文字が浮かび上がってきた。

「多羅葉・タラヨウ」、もちの木科の木で、葉は楕円形、裏面は傷つけるとその部分が黒くなる性質があり、それを利用して昔はこれに手紙を書いた。葉に書くことから「ハガキ」の語源と言われている。経文を書くヤシ科の多羅樹(たらじゅ)にたとえて「多羅葉・タラヨウ」と言われる。 別名は 「ハガキの木」 。
また一つ勉強になりました。

2003.12.13.

 


★書くことをそれほど苦にしていなかったのですが、気がつくと一ヶ月何も書かないでいました。書きたいこと話したいことがいっぱいあるのに、書けない話せないってことありませんか。何か面倒なようなどうでもいいような気になって黙ってしまうことありませんか。書いたから話したからどうなるものでもないからと黙ってしまうと、本当にどうにもならないんですね。国を動かすような大きなことに何か言うのでも、街のこと、商店街のことのような小さなことに何か言うのでも、どうでもいいや黙っていようでは良くなりませんね。みんながみんな同じように感じたら、街を動かす者、区を動かす者、県・都を動かす者、国を動かす者の資質は誰が正すのでしょうか。彼らは小さな誤りにも気がつかず、やがて大きな誤りを犯すかもしれないのに、自分の行いの正当性をのみ模索しているのかもしれません。いや、それ以前に正当性を正当化しているのかもしれませんね。自分の愚かさに気がつかない愚かさ、そんな者しか今の時代にはトップに立てないのかもしれませんね。本当はどうでもいいやじゃいけないのですが、少しどうでもよくなりかけている今日この頃です。

2003.12.11.

 

★火曜日定休、上野の森に大英博物館の至宝展を見に行きました。何と、連休明けの火曜日で休館でした。国立博物館も科学博物館も西洋美術館も休館、動物園までもが休園でした。どうりでいつも満車の駐車場がガラガラでおかしいなぁと思ったのですが。やむなく新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で開かれている「ゴッホ と花 ・ ひまわりをめぐって」を見てきました。アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館の「ひまわり」、シカゴ美術館の「ルーラン夫人(揺り籠を揺する女)」、そして日本の損保ジャパン東郷青児美術館所蔵の「ひまわり」が「三幅対」として展示され、個々の絵をそれぞれに鑑賞するのとは異なった味わい、見方を知りました。それにしてもあらためてゴッホが画家として生きた時代が1880〜1890のわずか10年間という短さと120余年前であることに驚異を感じました。

2003.11.5.

 

★忙しい忙しいと仕事に追われていると、考える時間がないからバカになると言った友人がいる。そうすると最近の私はヒマでヒマでヒマを持てあましているくらいだから、かなり利口になったかなぁである。でも、まぁ、時間がいくらあっても何も考えなければ脳みそツルツル、シワ一つ無い真っ白な空っぽな脳みそになっているかもしれない。何も考えないのも困ったものだが、考えすぎるのもまた困ったものである。部活は帰宅部、学校が近いから終業のベルが鳴り終わらないうちに帰ってくるような息子、ゲーム三昧だけかと思っていたがそれなりに考える時間を持っていたようだ。それが中間テストの最中に吹き出して、いきなりかなり悲観的な人生論をぶつけられた。未熟な人生論ではあるが単純に否定できる雰囲気でもなく試験以上に難問を抱えてしまったように思われた。考えるだけ少しは成長したかとは思うのだが、未成熟な理論のなかで簡単に結論を出そうとするのが怖い。今の息子にはそれが精一杯の思考ではあるのだろうが、これからの経験と思索をもっともっと重ねてもらいたいと思うばかりだった。そうなると、忙しい忙しいでバカになっている友人が羨ましくなってきた。

2003.11.1.

 

★3泊4日の修学旅行、寝不足で帰ってきた息子に早速家内のヒステリックな声が飛ぶ。

 「もお〜、汚いんだから。すぐにお風呂に入りなさい!」
 「一度もお風呂に入らないなんて〜!下着も取り替えていないじゃないの〜!もお〜〜」
 「まぁ、きれいではないけど、高校生の修学旅行なんてそんなもんじゃないのか」
 「そんなもんじゃありません!」

まぁ、無事帰ってきました。ホットするまもなく火曜日から中間テスト。毎日のように学校帰りに寄っていた友達も、さすが試験一週間前になるとピタリと来なくなる。「みんな勉強してるぞ」の声をよそに、相変わらずゲーム三昧の息子、「誰に似たんだ」。やはり父親似かな、私もそんなに勉強した方じゃないから・・・。でも、まぁ、何とかなるか。

2003.10.25.

 

★高校2年生の息子が修学旅行で北海道に行っています。私の頃の修学旅行は、決められたところへ全学年でまとまって行き、何台もバスを連ねて教科書通りに見学してくるものでしたが、今は随分趣が異なり時代を感じているところです。生徒たちが希望を出し、行き先を4ヶ所にしぼりそれぞれ希望のコースを選ぶのですが、そのコースも全員で行動するのではなく更に行きたいところ見たいものを選んで班毎に行動すると言うものです。道東、道南、沖縄、韓国の4つのコースの旅行ガイドも、それぞれのコースの係の生徒が作っていました。道南を選んだ息子は、昨日は函館、今日は洞爺湖を見学して明日札幌、明後日小樽の3泊4日。持ち物にはゲームソフトが幾つか、3日間徹夜でゲームをするんだとに出かけていきました。ぐずついている北海道の天気を気にしている親バカです。皆さんの修学旅行は如何でしたか。

2003.10.16.

 


★根岸の里に「子規庵」を訪ねてきました。正岡子規の住居を残したものです。木造平屋の粗末な家ですが、どこか懐かしく温かな感じが心に残りました。子規の句といえば
   「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
これくらいしか思い浮かばないのですが、ガラス戸を通して見える庭の糸瓜の棚にさがる大きな糸瓜が印象的でした。明治35年9月19日、へちまを詠んだ三句を残して35歳でなくなった子規の命日は「へちま忌」と呼ばれているそうです。

絶筆三句
 「糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな」
 「痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず」
 「をととひの 糸瓜の水も とらざりき」

病苦の中で書かれた直筆の書、すごいなぁ です。「子規庵」を残すために子規庵保存会財団法人が認可されたのは昭和3年7月だそうだ。大戦で焼失した子規庵は寒川鼠骨等によって昭和25年6月に再建され、昭和27年には都文化史蹟に指定されています。すごいなぁ です。その子規が昨年野球殿堂入りしているのをご存じでしょうか。子規は30以上もの沢山のペンネームを使っていたそうです。その中の一つに「野球」というのがあります。子規の本名「升・のぼる」を好きな野球にかけて、「野(の)球(ぼーる)」としたのだそうです。なにか温かな親しみを感じるエピソードですね。もうすぐ「へちま忌」です。一度子規庵を訪ねてみませんか。JR鶯谷から徒歩10分ほどです。(台東区根岸2-5-11  03-3876-8218 )

2003.9.17.

 

★夏祭りかと思うほど暑い秋祭りでしたね。「きっと神様が8月と9月をまちがえたんだヨ」と小さな子が話していました。子供のことばに微笑むときがありませんか。「どうしてお相撲さんって裸んぼなの?」って言っていた子もいました。みんな、みんなそんな子供の頃があったんですよね。理屈ばかり言って面白くもない大人になっていないで、時々子供の感覚でいろいろ見たり考えたりするとまた新しい発想が浮かんでくるかもしれませんね。
 練り歩く御神輿を見ながら子供の頃を思い出していました。どうも私のお祭り嫌いは子供の頃からだったようです。お祭りの日が来ると、今の六本木ヒルズの真ん中あたりにあった「やぶしたの釣り堀」や本村町の釣り堀に行って、1日太公望を気取っていたものです。本村町の釣り堀「衆楽園」は、今も昔のままにあるのがうれしいですね。釣りはとっくに忘れましたが、お祭り嫌いは今も続いています。御神輿を担いだのは青年会長をした時、一度だけ。それからもう25年も経っていますが、店のすぐ前のパティオに造られた御神酒所が、ずっとず〜っと遠くに見えています。

2003.9.14.

 

★月に寄り添うように火星が見えるのTVニュースに、夜空を見上げてみる。月から3cmぐらい離れて火星が見えた。夜中にもう一度見ると、もう火星は50cmくらい離れている。実際にはどれほど離れているのだろうか。今日は満月、中秋の名月、たまに空を見上げるのもいいものですね。望遠鏡といかないまでも、倍率の小さな双眼鏡でもウサギが餅つきをしているのが見えるかもしれませんよ。このPHに満月の写真がありますのでご覧下さい。(こちら)秋になって暑い日が続き、大きな台風も来ているようですが、今日は二百二十日、大きな被害がないといいのですが。

2003.9.11.

 

★三日間の納涼まつりが終了し、ほっとしています。大勢の方々に支えられてのチャリティー、15年間よく続いたなぁとつくづく思いました。15年のお付き合い 山本昌平さん、紅 理子さん、14年出演の横山太郎さん、毎年8月のこの時期の三日間をあけておいて下さること、大変なことだと思います。各地の童謡の会の方々も15年続くと15歳 歳を取られたわけですから、かなりのご年配の方もいらっしゃいます。かわりに若さ溢れんばかりのイッツフォーリーズの方々、今年は音響ミキシングから司会までお手伝いをお願いしてしまいました。大和証券のみなさん、それにホームページを見て心配してお手伝いを申し出て下さった方、舞台作りをかって出て下さった地元の劇団 クロスロードアクターズクラブの方々、まだまだ大勢の方々に支えられてのチャリティーでした。本当にありがとうございました。
「やまもとさん」と声をかけて、ゆかたを着たかわいい女の子がふたり。8月の始めにきみちゃんのことを聞きに来た小学校3年生と1年生の姉妹でした。宿題のテーマにきみちゃんを取り上げ、ていねいにまとめたレポートをわざわざ持ってきてくれました。「やまもとさんのことも書いちゃった」と見せてくれました。うれしいですね。疲れがいっぺんに吹き飛んだようなかわいい笑顔でした。
大勢の皆さまのご協力、心からお礼申し上げます。

2003.8.25.

 

★「チャリティー どうするの、出来る?」
 「いつも通りやりますよ」
 「大丈夫?手伝おうか」

 病後の体力を心配して声をかけてくれる友人、うれしいですね。明日から始まる麻布十番納涼まつりで、赤い靴の女の子「きみちゃん」のチャリティーをはじめて15年になります。世界の恵まれない子供たちのために、納涼まつりに来て下さった方々に呼びかけています。14年間で760万円をユニセフに、70万円を阪神大震災の義捐金に送りました。大勢の方々のご協力に改めて感謝の気持ちでいっぱいです。きみちゃんを通して大勢の方々にお会いできたこと、人と人の出会い、縁の不思議さを感じることが多々ありました。いろいろな方々にお会いできたこと、何よりの宝です。私にとってチャリティーひろば は、温かな出会いのひろばでした。さあ、明日から3日間の納涼まつり、今年も新しい出会いがあるかもしれませんね。遊びに来ませんか。

2003.8.21.

 

★初めてドメインを獲りました。お店の名前 laurier( ローリエ) はすでにいろいろなところで獲られて獲れませんでした。まるっきり獲れないわけではなく、南太平洋やインド洋の小島のドメインなら獲れるのですが、やはり jp で獲ろうと・・・。名前をもじったハンドルネーム「jin3」を入力してみると、なんと獲れるではありませんか。何となくうれしくて獲ってしまいました。さて、引っ越ししよう思うとなかなかやっかいなことが多いのに気がつきました。BBSやCounterの作り直し、メールアドレスも変更 etc.etc.です。若者と違ってこちとらオジサンはBBSやCounterのCGIの作り方を思い出すのに一苦労。1年も前のこと覚えていくか〜〜、昨日のことも忘れちゃうんだから。ってわけでカウンターが動くのに3日もかかっちゃった。アハハ。ともあれ、こうして引っ越しました。これからもよろしく「麻布十番未知案内」をすみからすみまでズズズイ〜〜ット〜ご覧下さい。

2003.8.18.

 

★退院してから一月半が過ぎました。出来るだけ運動するようにと言われて、毎朝とは行かないまでも30分ほど散歩しています。ただ歩くのもと、デジカメを持って気になった風景を撮りながら歩いているのですが、今更のように街の変貌に驚いています。一日中店にいて、ほとんど自分の住む街や周辺を歩いていなかったことに気がつきました。何か目的を持って歩こうと、初めのうちは港区の七福神を訪ねてみました。かなり広範囲に点在するので1日に一カ所、久しぶりの懐かしい神社も初めての神社もありました。港七福神のページの写真を更新することが出来ました。坂の多い麻布です。坂の標識を撮りながら歩きました。まだ未完成ですが「坂」のページを新設しました。いろいろ新発見があります。面白い看板、昔のままのたたずまい、こんな所にこんなものが、ここにあったんだけどなくなっちゃったなぁ・・・。いろいろ、いろいろです。皆さんはご自分の街を最近歩いてみたことありますか。また、少しずつページを増やしてご紹介します。

2003.7.21.

 


★相田みつを 著 「生きていてよかった」(ダイヤモンド社) より


一生燃焼
  一生感動
    一生不悟


感動いっぱい

人間が生きるということは 毎日何かに感動し、感激してゆくことだと私は思います。
昨日は気がつかなかったものに 今日は新たな発見をして感動する。年と共に顔にしわはできますが、心の中にしわは作りたくありません。心の中にしわができたとき 人間は感動しなくなるのではないでしょうか 。感動、感激にかねはかかりません。一生悟れなくてもいいから 感動いっぱい、感激いっぱいのいのちを生きたいと思います。

2003.7.13.

 
「おい、生きているか。これからそっちへ行くからな、あと2時間は生きていろよ」
「今、どこにいるんだ」
「家だよ、これから出るから6時にはそっちへ行くよ」
「2時間もかかるのか、ずいぶん田舎に住んでいるな。熊は出ないか」
 
 
受話器を取るといきなりこんな会話である。6時過ぎにやってきた友人は大きな紙袋を手にしていた。
 
 

「全快祝いに鯛を焼いてきた。夕飯の支度はすんだだろうから、明日にでも食べてくれ。浜焼き風にちょっと塩をきかせてあるから、2、3日はもつよ」
 

 

心配をかけまいと入院したことは黙っていたのだが、退院してしばらくして入院手術のことをMailで報告した。びっくりしてすぐに電話してきた時も、いきなり 「おっ、生きていたか、よかったよかった」と口の悪い友人だが心から心配してくれる親友でもある。包みを開けると笹の葉もそえられ和紙に包まれた鯛の浜焼き、とても素人の仕事には見えない見事なものだった。休みの日に朝から魚屋に行き、時間をかけて料理してくれた友人の気持ちがうれしい。
 

 

「じゃぁな、もう少し生きていろよ。」
「あぁ、お前もな。俺ももう少し頑張るから、熊に気をつけろよ」
 

 
退院から4週間、大分復調してきた。もう少し頑張るか。

2003.7.6.

 


★昨年7月に公式サイトを立ち上げて満1周年、この7月1日のカウンターは100196。麻布十番への関心度の高さがアクセス数に表れているのだろうと、うれしくもありまた責任を感じています。ブロードバンドの時代になり多少重いページも見やすくはなったとはいえ、まだアナログの方も多いのだからと、出来るだけ軽く見やすくを心がけてきたのですが、如何でしょうか 見にくいページにお気づきでしたらご一報下さい。他人事のようですが、現在 2620ファイルのこのサイトを一人で創っていると、気をつけているつもりでも 長いこと更新を忘れた古いページや重いページがどこかにあると思います。商店街の情報サイトですから最新の情報を間違えなく伝えることを第一に、見やすくわかりやすいページ作りを心がけてきました。VTRやアニメを使ったり、いろいろ凝ったサイトを見かけるのですが、やはりシンプルで見やすい、そして多少はビジュアルであることがこの種のサイトには一番大切だと思っています。本当はそれらの技術に追いつけないのですが、まぁ、素人で私の歳でここまでやれるものは、そうはいないだろうと自分で自分をほめています。5月に体調をくずし一ヶ月の入院生活、この間ページの更新が出来なかったのですが、代わりに私がやっておきますという商店街の若者が現れなかったのが寂しいですね。ともあれ、自画自賛の満一周年でした。ご愛読ありがとうございました。

2003.7.3.

 


★PTA広報誌の書き方について朝日新聞に大木薫さんが書かれていた。以前、息子の小学校のPTAに関わったことがあるのだが、思いあたることが多かった。原稿は全部教頭のチェックを受ける、せっかく表情豊かな子どもたちの写真は誰だか顔のわからない写真に替えられる、PTA会長と校長とどっちを先に載せるか低次元な話をする、etc.etc.である。個人情報を守るとか言いながら御身大切にクレームのつかないように、波風たてないように、役所や周りを気にしてばかり、そんな経験をした方も多いのではないでしょうか。PTAの広報誌は子どもたちのようにのびのびした発想と自由な表現で書きたいものですね。学校での活動は目線は子どもたちの高さで、あくまでも視線は子どもたちに向けて行うべきで、決して周囲や役所を気にしてすべきではない、前例がなかったら創ればいい、文部科学省に事例がなかったら川下から上げてやればいい、もっと自由にもっと豊かな発想をと昔のPTA時代を思い出して大木氏の記事を読んでいました。

2003.6.28.

 


★父が亡くなったのは86歳、母は90歳、長命の家系である。ガンで亡くなった親類もいない。そんな家系、入院もしたことがない健康そのもののような私が ガン?まいった、まいったなぁである。レントゲンをみるとかなり大きな 腫瘍らしきコブがわかる。素人目にもそれとわかる大きさに、「先生,ガンですか?」 「多分!」。
 まさに青天の霹靂、ショックである。一昔前ならガンの告知が云々されていたが、いざ自分がその立場になるとは思ってもいなかった。セカンドオピニオンを求めるような 「疑わしい」ではなく、かなりはっきりしている。リンパ、肝臓に転移していないことを祈るばかりだった。5月の連休を挟んで検査が中断されるのをさけて、連休明けの入院手続きして帰ってきたのは4月25日だった。
 入院までの10日間で出来ること、とりあえず留守の間、家内とまだ高校生の息子が困らないようにしておかなければ。息子がちょっと可哀想だった。ちょうど1年前に家内の入院手術で心配をかけたのに、今度は私が入院。私自身は主治医を信頼し全快を祈るばかりだが、息子の心配を癒すすべが私にないのがつらい。おそらく 17歳の心にかなりの負担になっているだろう。

 「お父さんは大丈夫だから、おまえは自分のことを 自分で考えて 強く行動しろよ」
 「・・・・・」
 「手術よりおまえの方が心配だよ、お父さんは大丈夫だからな、おまえ自身のことを考えろよ」
 「・・・・・」

 一月の入院、検査、手術。無事退院して、今、健康のありがたさを改めて考えている。

2003.6.23.

 
店声仁語:目次・・・

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