ひな祭り
旧暦三月三日は「桃の節句」あるいは「雛祭り」。五月五日の端午の節句が男の子の節句といわれるのに対して、こちらは女の子の節句。節句は本来は節供と書き、江戸時代には五節供として、法制化された式日(当時の祝日みたいなもの)の一つでした。
三月三日は桃の節句と書きましたが、もとは「上巳の節供」「元巳」といわれました。「上巳」とは旧暦三月の上旬の「巳の日」と言う意味で、三日に固定されていたわけでは有りません。現在の様に三月三日に固定されるようになったのは中国の三国時代、魏(AD220-265)の国で。日付が固定されてからは三月三日と「三」が重なることから「重三(ちょうさん)の節供」ともいわれるようになりました。
中国古代に於いては、上巳の節句には河で禊ぎを行い、汚れを落とし、その後に宴を張る習慣がありました。また同じ日に「曲水の宴」も行われ、奈良〜平安時代に日本の貴族階級に取り入れられたのが、日本での桃の節供のスタート。
ところがどうしたことか、河での禊ぎはあまり一般化しなかったようで、この日に形代(かたしろ・人形)で体をなで、これに汚れを移して川や海へ流すと言う日本独特の行事が生まれた。今でもこの「流し雛」の行事が残る地域が有ります。
さてこの形代、いつの頃から公家や上流武家の間で上司への贈答の品となった。こうなると「質素な形代→豪華な人形」へ変化した理由は説明するまでもないでしょう。やがて河に流すものでなく、家に飾るようなものも作られるようになりました。その一方で公家の子女が「雛遊び」として人形や小型の調度品を並べて遊ぶままごとがあり、この両者が融合して「雛人形」への道を歩むことになりました。雛人形を河に流すことなく家に飾ることが主となったのは室町時代頃といわれます。
桃の節句の習慣が一般庶民に浸透し始めたのは江戸時代。現在の雛人形の形は元禄時代にほぼ完成したといわれます。この時代は庶民の経済力が著しく増した時代で、経済的に余裕の出来た庶民が競って豪華な雛飾りを作るようになり、雛壇にたくさんの人形を飾る者も現れ現在に至る。
桃の節供の「桃」については旧暦当時の三月を代表する花であるということ、桃は「女性」を思い起こさせる花であると言うことから女の子の節供には「桃の花」となったのでしょう。桃の花が女性を象徴すると言う考え方は中国の影響か。周の時代に成立したといわれる詩経に王が佳い嫁を探す歌が有りますが、その中に既に「桃の花のような女性」と謡われています。こういった古典に親しんでいた平安貴族にとって女性の節供の花は桜でも梅でもなく「桃」だったのでしょう。
(サイト 「こよみのページ」より)
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