店声仁語−5− ( 2002.9.〜2003.4.)

店声仁語:目次・・・


★本家 朝日新聞の天声人語、4月30日より

『・・・(六本木ヒルズに)隣接して、学校が二つある。校歌を見せてもらった。▼都立城南高校は「光を浴びて聳ゆる学舎/花散る丘よ輝く海よ」。向かいの港区立南山小学校は「麻布の丘にそびえてたてる/校舎をめぐる木々の若芽の/しじにのびゆく われらがすがた」。かって丘にそびえていたのは学校だった。今は、あのヒルズが覆いかぶさるようにそびえている▼「はてなき空は われらが心/おお ひろびろと はてなき心」(南山小)。空が狭くなっても、そんな心を持ち続けてほしい。巨大都市が備え持つ、有無を言わせないような変容の激しさと躍動とを、丘をくだりながら改めて思った。』
二校とも我が母校です。都立城南高校は来年その60年の歴史を閉じます。港区立南山小学校は今、創立127年、これからも子どもたちが「はてなき空、はてなき心」を持ち続けてくれることを祈ってやみません。

2003.4.30.

 


★静かだった都知事選では一度も選挙カーを見かけなかった。今度は区議選、港区は34の議席に48名の立候補だそうだから、政策より名前の連呼で賑やかに売り込んでいる。それはそれで仕方ないのだが、休みで出かけた火曜日に外出から帰って留守電を聞くと長々と政策を吹き込んでいる立候補者がいた。長ったらしい留守録なんかすんじゃない!こいつには絶対入れないぞ!
「よろしくお願いします。1週間 頑張ります!」
「何 馬鹿なことを言っているんだ。1週間お騒がせします。4年間頑張りますだろう」こいつもダメ。初めて立候補したその時の思い、その日の街頭演説、その情熱を4年間、いや、ずっと忘れないで欲しいものですね。

2003.4.24.

 


★平成元年2月28日、雨の降る火曜日でした。きみちゃんの小さな像が彫刻家佐々木至さんの手でパティオ十番に建てられました。火曜日で定休のお店が多く人通りの少ない日でした。 うれしくて何度となく傘を差してきみちゃんを見に行きました。夕方、きみちゃんの足下に小銭が置かれているのに気がつきました。数えてみると18円。これがきみちゃんのチャリティーの始まりでした。
 それから14年、雨の日も雪の日も本当に途絶えることなく、きみちゃんの足下に置かれた小さな貯金箱には浄財が入れられています。毎日、お店を閉めてから貯金箱を開けて浄財を預かるのが、私の1日の最後の仕事です。一月分をまとめて信用金庫のきみちゃんの口座に預け、毎年4月に前年度分をユニセフに贈ってきました。阪神大震災の時、義捐金として70万円を贈ったほかは、全額世界の恵まれない子どもたちのためにユニセフに贈ってきました。小さな貯金箱です。1円、5円、10円・・・小さなお金、でも、とても とてもきれいなお金 です。ポケットから大事そうに出してきみちゃんの貯金箱に入れてくれる子どもたちの10円はどれほど貴重な、どれほど温かな思いでしょうか。
 昨日(4月21日)、平成14年度分70万円をユニセフに贈りました。これまでの累計はユニセフに760万円、阪神大震災の義捐金に70万円、総額830万円になります。皆様の温かいご協力に心からお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

2003.4.22.

 


★あなたのパソコンの技量はと聞かれて65%の人が中級と答えたと日経パソコンに書かれていました。どの程度が中級なのかわかりませんが、この数字にはちょっとびっくりです。パソコンってそんなに簡単なものではないのにと思うからです。私はワープロは20年近く使っていましたが、パソコン歴はまだ4年、習いに行く時間がなかったのでマニュアル本での独学でした。ワードはそこそこ、エクセルはカタコトかな、フォトショップ、イラストレーター、MSのフロントページはこのホームページの制作にと、かなりパソコンを使っている方だと思いますが、いまだに横文字の用語に悩まされ用語辞書を手放せない初心者だと思っています。パソコンの奥の深さは使えば使うほど、上には上の出会い、なかなか私は中級なんて言えないのではと思うのですが、皆さんもパソコン中級でしょうか。
 商店街にホームページ部を作りこのサイトを立ち上げたときも、「パソコン出来ますから手伝います」と言ってくれた方々の多くがワードでメールくらいかな。「エクセルも使えます」なんて言う人はエクセルを知らない人のように思われてなりません。それでもパソコンは日に日にやさしく使いやすくなっているようで、持っているだけで「使えます」と言うのもわからないわけではありませんが、でも、わからないことだらけなのがパソコンだと初心者の私は謙虚にそう思うのです。

2003.4.13.

 


★赤い靴の女の子「きみちゃん」に携わって多くの方々にお会い出来たこと、それは私にとってこの上ない宝です。きみちゃんを通して、人と人のめぐり逢いの不思議な縁を幾度となく経験してきました。毎年納涼まつりにお手伝い頂いている山本昌平さん、紅理子さん、横山太郎さん、そのご縁から大倉芳郎さん、ヘンリー・ミトワさんに繋がる縁の広がりは更に広がり続けているようです。九州から北海道まで、今日もまた、日本中できみちゃんのお話が語り継がれて広がっていくようです。
 先日、お店を開けるのを待っていたように「おはようございます、西川です」とにこやかにたたずむ中年の紳士に声をかけられました。一瞬びっくりしたのは、西川さんは今ヴェネズエラにいるはずだと思ったのと、15年ぶりの再会だったからです。きみちゃんが出来た平成元年、新聞で知った西川さんはわざわざ大阪から上京され、当時勤めていた小学校で、子どもたちにきみちゃんの話をし、赤い靴の劇をやるのだと、きみちゃんのことを詳しく調べて帰られたのです。3年前、ヴェネズエラの日本人学校の先生として赴任された西川さんは、毎月「ヴェネズエラ通信」と題した便りを日本の友人にメールで送り続けていたのですが、この1年余はヴェネズエラの政情不安を伝えるメールがほとんどでした。身の危険を感じさせる緊迫したメールが3日連続で届いたこともありました。その西川さんが目の前に立っていたのですから驚きました。3年の任期を終え帰国したその足で「きみちゃん」に会いに来て下さったのです。「15年ぶり、十番は変わりましたね。でも、きみちゃんも山本さんも変わっていない」「いやぁ、歳とりましたよ」。懐かしい、うれしいひとときでした。新学期、新しい学校で子どもたちにきみちゃんのお話をする西川さんが目に浮かぶようです。

2003.4.2.

 


★私ごとですが、公式サイトの原型の私サイト「麻布十番未知案内」が今日20000アクセスを超えました。2年かかりましたがうれしい限りです。公式サイトは半年で50000アクセスでした。やはり麻布十番の知名度はすごいものですね。ちっとうれしくて・・・自分で自分を褒めています。

2003.3.21.

 


★京都天龍寺のアメリカ人僧侶、ヘンリー・ミトワさんが先ごろ作家の水上勉さんとお二人で出された「辞世の辞」(ビジネス社発行)を読みました。私がミトワさんに初めてお会いしたのは五年ほど前、作詞家の大倉芳郎さんの紹介でした。赤い靴の女の子きみちゃんに興味を持たれたミトワさんがきみちゃんを見に上京された時でした。きみちゃんの話は菊地寛さんの著作「赤い靴はいてた女の子」(現代評論社)を読んでご存知でしたが、私たちが続けている子どもたちの為のチャリティーについて、また、どうしてきみちゃんがチャリティーに結びついたのか、何故そんなに熱心に続けているのかといろいろ質問されたことをはっきり覚えています。アメリカ人ですが臨済宗天龍寺の僧侶ですから日本人以上に流暢な日本語?にも驚きましたが、「帰りに浅草に行ってドジョウでも食べませんか」と誘う大倉さんに「いいですね、山本さんもどうですか」には、本当にお坊さん?って感じでした。
昨年の納涼まつりにもわざわざ上京され、きみちゃんのチャリティーを見て行かれたのですが、ミトワさんのきみちゃんに対する思い入れは私の比ではないなと最近つくづく思っています。ミトワさんは今「赤い靴」の映画を創ろうと奔走しているのです。きみちゃんを映画にしたいと言う話は何度かありましたが、いずれも資金面から取りやめになっています。確かに映画制作には莫大な資金が必要です。それ以上に制作に対する意欲がなければならないのだと思います。ミトワさんは「辞世の辞」の中でも赤い靴の映画制作に付いて書かれていますが、そこに、いわば「異人さん」のミトワさんがどのようにきみちゃんを見ているのかを知る何かを見つけたような気がします。
ミトワさんはアメリカ人を父に、日本人を母に1918年横浜で生まれています。帰国した父親に会いに渡米しますが、折悪しく日米開戦でアメリカ国籍でありながら日系人の収容所に入れられて、 その間に亡くなられた父親の死にも立ち会えませんでした。戦後、母親の病気の報にも旅費の工面が出来ずに母親の死にも立ち会うことが出来なかったそうです。母と子の絆を考えるきっかけを作ってくれたきみちゃんをミトワさんはご自分の生立ちのなかに見ていたのかもしれません。どうしてもこの映画を完成させたいと きみちゃんのお母さん「かよさん」の足跡を追って北海道留寿都を訪ね、きみちゃんの生まれ故郷静岡に支援者を求め精力的に奔走するミトワさんは、85歳の高齢です。商店街の人たちにも協力を呼びかけて、また、大勢の皆さんにもご賛同をいただきながら、ミトワさんの思いを私たちみんなの思いとして一緒に映画を作っていきたい、微力ながら協力が出来ればと思うのです が、皆さんご協力頂けないでしょうか。世界中の子どもたちの為に、母と子の絆の為に、親と子の愛の為に、ミトワさんと一緒に赤い靴の映画を創ろうではありませんか。具体的に動き始めましたらこのHPで大勢の方々に呼びかけていきたいと思っています。 どうか皆さんお知恵を、お力をお貸し下さい。よろしくお願い申し上げます。

2003.3.12.

 


★ちょっぴり塩からい天丼を食べました。お休みの火曜日に汐留の新しいビル郡を見ながら銀座を歩いてきました。新橋近くの天ぷらのお店、「お昼の天丼 1,000円」を食べたのですが、これにも父の懐かしい思い出がありました。昭和25年の正月だったでしょうか、父は幼い私たち姉弟を皇居前で行われていた出初式を見に連れていってくれました。初めて見るはしご車や鳶のはしご登りでした。北風の冷たい帰り道、父は「 おいしいものを食べさせてあげるからな」と言いながら歩きつづけました。「何だろう、おいしいものって」、皇居前から馬場先門、お堀を見ながら日比谷交差点へ。「ねぇ、まだ?」小さな足には随分と遠く寒い道のりでした。「もうすぐだよ」、日比谷から山手線のガードをくぐり銀座4丁目へ、 都電が行き来する銀座通りを新橋近くまでやってくると、「さあ、ここだ、ここの天丼、 おいしいぞ」。やっとお店に着いたのですが、父はショーケースを見ながらなかなか店内に入らないのです。しばらくすると「家に帰ってお寿司でもとるか…」。戦後の貧しい時代ではありましたが、出前のお寿司よりよほど高い天丼だったのでしょう、「いやぁ、まいったなぁ…」という感じで 、それでも元気よく笑いながら話す父がどこか寂しげに見えたのを今でもはっきり覚えています。「お昼の天丼 1,000円」、はじめて入ったそのお店で、もう50年余りも前の父の思い出を家内に話しながら食べた天丼、ちょっぴり塩からかったのは涙の塩のようでした。

2003.2.20.

 


★今では家族旅行や親子旅行などごく普通に思われますが、戦前ではあまり一般的ではなかったのではないでしょうか。私の叔母は新潟の小さな村からたった一度だけ親類を訪ねて大阪へ行った以外 、生涯村を出ることなく93才で亡くなっています。新婚旅行で熱海へ行ったけれど、箱根の山を越えたことが無いという人も知っています。それほど昔では ありませんが、荒廃した戦後の、皆が精一杯生きていた頃に子供時代を過ごした私は、父母姉達と一緒に家族旅行を経験したことがありません。 貧しかったといえばそれまでですが、それでも父には小学校低学年の時二度、問屋の招待旅行に連れていってもらったことがあります。一度は川治温泉、一度は熱海温泉 でした。母との旅行は一度もありません。小学校のころ、夏休みに姉たちと海水浴に連れていってもらったことくらいでしょうか。それが、その時代ごく普通の家庭だったように思 われます。 
 随分昔の父との旅を思い出したのは、実は夢を見たからです。見たことの無い家並みはどこか寂れた田舎町のようでした。砂浜の向こうにひろがる透き通るようにきれいな渚も行ったことの無い海辺でした。暗い 山間をはしる夜行列車、何故か贅沢にタクシーを呼んで遠い行き先を告げる、三十年余も前に亡くなった父がそこにいました。 そんな贅沢をする父ではありませんでしたが、その人影を父と思ったのは、宿帳だろうか、父の名と自分の名を書いている私がそこにいたからです。そんな夢でした。 翌朝、仏壇の上に掛けられた父の遺影をしばらく懐かしく見上げていました。
 時代が変わったと言えばそれまでですが、出来るだけ多くの時間を作って家族で旅行が出来ればと、つくづく思いました。こんな思いを感じるのも少し歳をとったせいでしょうか。 少子化の今、休みのたびに遊園地に行き、夏休みは、冬休みは、今度の連休はと、家族旅行する、それが現代のあたりまえの生活習慣のようになっているようですが、皆さんは ご自分の子供の頃、祖父母の子供の頃の思い出を、ご家族みんなで話題にすることがありますか。

2003.2.9.

 


★「スキーはしないよ」といってクラブのスキー合宿に出かけていった息子、高一。学校の入試休みを利用しての旅行である。例年中学入試のこの時期にはよく雪が降り、受験生は大変だなぁと思う。雪こそ降らなかったが厳しい寒さの中、今年もまた大勢の子供たちが私立中学の試験を受けている。ゆとり教育とやらで学力低下を心配する親心が良くわかる。誰もが学力低下を心配し、誰もがおかしいと思っている教育制度の改悪を敢えて実行している役人は、改悪だとは思っていないのだろう。こんなことを繰り返していると私立中学受験が私立小学校受験になり、私立幼稚園になり、教育は全部私立で国や地方自治体は私学に助成金を出すだけになってしまうのではないか、と、まあ、極論ではあるが考えてしまうのは私だけでしょうか。授業時間が減った分補習授業や塾通いをしなければならないのを教育制度の前進というのはバカな役人くらいであろうか。いや、その役人でさえ自分の子は私立に通わせているのかもしれない。どこかで誰かがこんな制度を変えないと日本の将来が思いやられるのだが、その日本を担う政治家が二世三世の後継ぎばかりじゃ、これもまた・・・。

2003.2.2.

 


★ 彼の友人から返信Mailがきた。I大学への転勤で水戸に移って23年になるとのこと、賀状が転居先不明で戻って連絡がとれなくなってから、もうそんなに時が流れていたのかと今更のように時の早さを感じている。二人の子供は独立して3人の孫がいると書かれていた。本人は転居案内を出したつもりでいたのだろうが、「水戸の梅もそろそろ咲くから見にこないか」と書かれたMailには、現在の住所も電話も書かれていなかったところを見ると、多分転居案内は出し忘れたのだろう。「それでよく大学の教授がつとまるよなぁ」「そんなもんだよ」懐かしい会話を肴に一杯飲みたくなった。水戸の梅を見に行きますか、住所不明の友人を訪ねて・・・。

2003.1.23.

 


★ ヒマな店番、道行く人を見ていると学生時代の友人に似た人が通る。まさか本人なら私がここにいることを知っているだろうから、黙って通りすぎるはずはあるまい。と、良く似たその彼が今どうしているのか気になってきた。大学を出たあとも研究に残っていた彼だから、もし学界で活躍しているのならHPの検索に出てくるかなと、彼の名を検索してみた。思ったよりやせた白髪混じりの写真に「挨拶するHK教授」と書かれたページが出てきた。I大学の教授になって、元気で活躍しているらしい。40年も前の若き日の思い出がよみがえって懐かしく、またうれしいかぎりである。Mailで連絡が取れるといいのだが、元気でなにより、ほっとした思いでまた道行く人を見ている。

2003.1.20.

 


★ あけましておめでとうございます。
松もとれた今日、「あけまして…」は遅いようですが古くは15日までを「松の内」と言っていたようですのでご容赦下さい。新年をいかがお過ごしでしたでしょうか。未曾有の不況はまだまだ続きそうですし戦争の脅威もそこここに感じられる平成15年ですが、どうか皆さまにとりまして幸多き年でありますよう、ご健康でありますように祈ってやみません。今年もまたご愛読のほどよろしくお願いいたします。

2003.1.8.

 


★ 「きみちゃんのチャリティー、こちらでもいいですか、貯金箱がいっぱいで入らないんです」

 夕方、わざわざお店によって店内に置いてあるユニセフのチャリティー箱に募金してくださった若いカップル、ありがとうございました。毎晩閉店後にきみちゃんの貯金箱を開けて浄財をお預かりしているのですが、急いでいってみると貯金箱はいっぱいになっていました。あわただしい年の瀬に皆様の温かな心遣い、こころからお礼申し上げます。
 今年の春先、心無いいたずらに壊された貯金箱でしたが、続けてくださいと大勢の方々の励ましや新しい貯金箱をすぐに作って下さった鉄工所の社長さん、皆様に支えられて今年もチャリティーを続けることが出来ました。夏の納涼まつりのチャリティー広場でも、悪役の山本昌平さん、女優の紅理子さん、作曲家の横山太郎さん、いずみたくイッツフォーリーズのみなさん、童謡の会の皆さん、大勢のボランティアの方々にお手伝い頂き、世界の恵まれない子供たちにためにきみちゃんのチャリティーを続けることが出来ました。
 平成元年2月にきみちゃんが出来てから今日まで、1日として途絶えることなく続いているチャリティー、来年は15年目を迎えます。きみちゃんを通して大勢の方々にめぐり合えた「縁」、人と人との温かな絆は、きみちゃんが教えてくれた「母と子の愛、絆」とともに大切な心を子供たちに、そして大人にも与えてくれました。ありがとうございました。

2002.12.28.


★ クリスマスが近づくと、まだサンタクロースを信じていた幼い頃の息子を思い出す。

「サンタさんに何かお願いしたかい?」
「ん、エレファントノーズ」

 熱帯魚を飼いはじめて間もない頃で、図鑑でいろいろな魚の名前を覚えていたのだが、象の鼻のようなユニークな熱帯魚が「エレファントノーズ」だった。さっそくお店に行ってみたがエレファントノーズはなかった。代わりに「インペリアルゼブラプレコ」と言うきれいな縞模様の小さな魚を予約してきた。
 イブの夜、閉店後息子に気がつかれないように熱帯魚を取りに行き、水温を気にしながら部屋に隠しておいた。息子が寝てから魚を水槽に移し、サンタさんからの手紙を枕元に。
 翌朝、息子の声で起こされた。

「お父さん、お父さん、サンタさん来たよ。ほら、見て見て」
「あのね、エレファントノーズつかまらなかったから、インペリアルゼブラプレコ持ってきたんだって。これ高いんだよ。サンタさんって雪国なのにどうやって持ってきたんだろう・・・」

 図鑑でインペリアルゼブラプレコの名前を知っているだけでなく値段まで知っていたんです。今、高一の息子に「サンタさんに何か頼んだか」って聞いたところ、「忘れてた。だって夕食の時その話題出なかったもの」
 
Merry Christmas & Happy New Year.

2002.12.25.

 


★ 本を読みながらひとりでニヤニヤしている息子。

「何かおかしなことでも書いてあるのか」
「未来少年コナンって知っている?」
「昔、NHKTVでやっていたアニメか、宮崎駿の?」
「そう、コナンの舞台はね、2008年なんだって。それでね、あと6年したらタイトルが変わるのかなぁって。『過去少年コナン』に・・・だって」

コナンが放映されたのは1978年、その時30年後に人類の危機を想定していたわけだ。科学の発展は想像をはるかに超える早さで進んでいるようだ。鉄腕アトムが描かれたのは1952年、何と50年も前なのだが今でも色あせることなく、かえって現実味を帯びて見られるのではないだろうか。その鉄腕アトムは来年2003年4月7日生まれ、アトム誕生まであと119日。科学の進歩と同じように思想の、心の進歩もあったのだろうか。世界は今 、また、戦争の危機、人類滅亡の危機に本当にたたされているのかもしれない。

2002.12.9.

 


★ 地元の南山小学校3年生の授業で、赤い靴の女の子きみちゃんのお話をしてきました。3年生の子供たちはちょうどきみちゃんの亡くなった歳と同い年です。
母かよさんは未婚の母、幼子を抱いて激寒の北海道に渡り苦労してきみちゃんを育てますが、やむなく3歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師ヒュエット夫妻に託します。ヒュエット夫妻が帰国の時、当時 不治の病だった結核のため長い船旅ができず、麻布十番にあった孤児院に預けられたのは5歳。薬石効無く9歳の短い生涯を閉じたのは明治44年9月でした。
自分たちと同い年で亡くなったきみちゃんのお話を静かに聞いていた子供たち。
「きみちゃんは苦しい時に『お母さん』って呼んだよね、きっと。その時、生みの親のかよさんを思い浮かべたかな、育ての親のヒュエットさんかな。もし君たちが病気になったら『お母さん』って呼ぶかな、『お父さん』って呼ぶかな」
「両方、お父さんもお母さんも」
親子一緒に暮らせるよろこびを少しでも感じとってくれたらいいのですが。

少し時間があったので商店街の街路樹の話をしました。麻布十番に植栽された街路樹は「かつら」「はなみずき」「こぶし」「やまぼうし」「もみじばふう」「けやき」「とちのき」の七種が地域別に植えられています。それぞれが紅葉し落ち葉し始めたのですが、種類ごとに紅葉のし方も落ち葉の時期も違います。また、同じ種類の木でもそれぞれ違っているのです。子供たちに木々の違いを話しながら
「君たちもみな一人一人違うね、金子みすヾという人の詩に、『みんなちがって、みんないい』という詩があるんだけど・・・」
「知ってる〜!」
「えっ、金子みすヾ、教科書にあるの?」

わたしと小鳥とすずと

わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように、
たくさんうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

教室は子供たちの大合唱でした。「もうひとつ、金子みすヾの詩で『こころ』というのが・・・」
「知ってる〜」

こころ

おかあさまは おとなで大きいけれど、・・・・。

3年生が金子みすヾを暗唱してくれたのに驚きました。「おかあさまのおこころはちいさい」ってほんとかな?こどもたちは何時の間にか大きく育っていきます。それを伸ばすかどうか、おかあさま、おとうさまの大きなこころですね。

2002.11.16.

 


★ 民主主義の不合理と言うと大げさだが、商店街の意思決定には時折それを感じることがある。イベント、売出し、装飾、宣伝、広報等々、最終的な決定は理事会で決めると言うと、ごく正当な民主主義的な決定のように思われるだろう。しかも、その理事も公正な選挙で選ばれると 聞けば、民主主義そのもののような組織に思われるかもしれない。しかし、担当の理事がその道のエキスパートでは決してないし、他の理事もまたしかり自分の本業ではない専門外の仕事をやるのだから、わからないこと理解できないことも 多々あって当然である。その理事会ですべてが多数決で決められることに、小生しばしば納得いかないことがある。何年も先を見据えた商店街の将来的策定の決定は、それなりの経済的・政治的 知識、周辺環境、行政等の関連も必要だろうし、宣伝・装飾・広報のような感覚的なものは、それぞれのセンス、絵心、歌心、文才が必要だろう。おや?と思う結果に疑問を感じることが二度三度繰り返すと、感覚のずれを感じる以上に空しい虚脱感を感じ、そこから遠ざかっていく自分に気がつく。一般的な会社組織のようにトップダウンの出きる組織ではない 、いわばボランティアの集合体で、川下の意見を見極め、吸い上げて実行に移すことが出きる政治力のある上司がいるわけでもない組織の中で、単純な多数決がいかに不合理な数の力 となるか、今更ながら感じてならない。不合理を追求し街の明日を説得した力を、無力さと虚無感が抑えはじめたらそろそろ引退の歳か・・・。

2002.11.2.

 


★ 台所の冷蔵庫に小さな白板がとりつけてある。家内がその日の買物を忘れないようにメモっている。白板に書いた品物をメモ用紙に書き写して買物に行くのだが、時折そのメモ用紙を忘れて出かけることがあるらしい。何度も買物に行っているのはそのせいだろうか、まだボケる歳でもないのにと笑う。
今日の白板には「牛乳、ココア、大根」と書かれていた。悪戯に少し書き加えて出てきたのだが、気がついて何と言うか、「会話、優しさ、愛情」。今日は小生の誕生日。

2002.10.25.

 


★ 名門の都立九段高校が区立に移管する。中高一貫教育を公立でやろうと言うことらしい。賛否両論いろいろある中で最終的には行政の考えどうりに実行されるのがこの種の決定である。誰もが疑問に思いながら決定されていくことがほとんどではないだろうか。「いいねえ、素晴らしい事だ」と皆が喝采するようなことはまず無い。国の「ゆとり教育」しかり。ほとんどの国民は子供の学力、知識の低下を心配しているし、事実学力は落ちている。それでもますます教育の時間は削られて、一方で学校以外の教育、学習塾へ通うようになる。誰が、何のためにそんな制度を考え作っているのか理解に苦しむ。おそらくそれに関わった役人は「公立はもうだめだ」とか何とかいいながら、自分の子供たちを私立に行かせ塾に通わせているのだろう。こんな教育ではダメだと誰もが思いながら、言っても仕方ないと黙ってしまう。マスコミもまた何にも書かない。外務省だけでなくどの省もみな変な官僚気質に凝り固まって社会一般的通念からかけ離れて行政を行っているような気がしてならない。

2002.10.23.

 


★ 今日から「銀座アキュイユ」が始まる。さすが銀座らしいネーミングと言うべきか「アキュイユ」がなんだかわからないと言う人がほとんどだろう。以前は「大銀座まつり」という名のイベントだったのが変わったらしい。大銀座祭りは1999年まで32年間続いたそうだ。広告代理店などが企画運営していたイベントが不況のせいもあるのだろうか 中止され、一年の空白のあと昨年から地元の商店や会社が自分たちで企画運営するいわば手作りのお祭り「銀座アキュイユ」に変わったのだという。アキュイユはフランス後で「おもてなし」を意味するのだそうだ。
「麻布十番納涼まつり」はどうだろうか。年々規模が大きくなっていろいろな弊害が指摘され、商店街の手作りでは無理だとBBSに書かれたりしている。銀座が手作りの良さを再認識し、広告代理店等業者任せにイベントから自分たちのお祭りを取り戻したのと全く逆の意見である。長い手作りの経験を捨てて業者に任せたところで、そう簡単に問題が解決するものではあるまい。かえって問題を抱えたまま手作りの良さを無くし、「おもてなし」の温かさを無くすだけではないだろうか。心からの「おもてなし」をもう一度取り戻す為に、銀座のように思いきって一度中止してみるのも良いのかもしれない。時間をかけて問題点をいろいろな角度から考えてみる、お客様はじめ大勢の方々の意見を聞いてみる、業者に丸投げで任せるのではなくプロとしての業者の意見も聞いてみる、等々やり方はいろいろあるだろう。ただ黙って見ているだけでなく、ただ例年の通りを繰り返すのではなく、思いきった改革を考えるべきだろう。改革は小泉政権だけの話ではない。

2002.10.19.

 


★ 小話-1、友人に「熊」という名字の人がいます。私が留守の時、彼からの電話を受けた家内との会話。

「今、主人は出かけております。失礼ですが」
「熊と申します」
「・・・くま・・・、熊田さまですか」
「熊です」
「・・・熊井さま?・・・」
「いえ、ただ熊です」
「失礼しました、お電話頂いたこと伝えておきます」

 私が帰ると家内曰く「多田熊さんって方から電話がありました」「?」

★ 小話-2、今朝のお客様との会話。

「・・・ありがとうございました」
「麻布にもホームレスがいるんですね」
「どこかで見かけましたか」
「そこの広場、パティオっていうの、ほら」
「あれですか・・・」

その日、パティオ十番では骨董市が行われていました。

2002.10.5.

 


★ 火曜日、久しぶりに東京ドーム、巨人−横浜戦を観戦。南北線が開通して後楽園まで14分、近くなったものです。高1の息子に

「おい、東大まで18分だぞ、近くなったなぁ」
「時間の問題じゃないじゃない!」
「まぁな、時間もあんまりないか」

 1−0の投手戦、飲みすぎたビールのせいか居眠りしていると、「いいぞ〜」と息子の声。9回表に逆転されていた。ってことは小生は巨人ファン、息子はアンチ巨人、「いやぁ、まだまだ裏がある」。その裏もランナー1、2塁で頼みの松井が三振、2アウト。それでもドームは巨人ファンが9割かなぁと思うくらいの声援で

「シンノスケ〜、SHINNOSUKE〜〜〜!」
「やったぁあああ〜〜〜」
逆転サヨナラだあ〜〜〜〜!総立ちの観客のなかで息子だけが座っていました。
「いい試合だったなァ」
「・・・」
「東大まで18分かぁ、景気悪いしなぁ」
「何それ」
「いやぁ、国立は授業料が安いってこと」
「あっそう!」
「そう」

2002.9.20.

 
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