店声仁語−8− ( 2004.7.〜2004.12.)

店声仁語:目次・・・

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★「いらっしゃいませ」
 店に入ってきた若者は、私の顔をじろじろ見ると今度は店の中を黙ってひとまわり。
 「何かお探しですか?」
 「ホームページを見て来ました。今、きみちゃんと氷川神社とドイツ大使館を見てきました。」
 「麻布十番未知案内?どちらから?」
 「東松山です、埼玉の。麻布十番はセーラームーンの舞台だったんですよね。火川神社が氷川神社、ゲーム    センタークラウンは、今、マックなんですね」
 このサイトをお気に入りに入れてあるという若者は、しばらく話をして帰っていった。うれしいですね、どこかで誰かが見ていてくれる。そして、地図をプリントアウトして訪ねてきてくれるなんて、更新をまめにやらないとと改めて思いました。

2004.12.30.

 


★501号室のドアになにやら書かれたA4ほどの紙が貼ってある。近づいて見るとこんなことが鉛筆でかかれていた。
「さんたさんへ あやにままごとはうすをください おねがいします あやりより」。
友人のT.Iさん、イブの日に飲み過ぎてお子さんの欲しがっていたオモチャを間違えて買って帰ったそうだ。夜中に気がついて、あわてて夜の街を探し歩いてやっと欲しがっていたものを見つけたとか。「下の子はまだサンタクロースを信じているからあわてましたよ。いつもは朝寝坊の子が早くに起きて大喜びしていました」。
我が家でもそうだったなぁと息子の小さい時を思い出していました。熱帯魚を欲しがられたときはちょっとあわてましたが、いい思い出です。かなり大きくなっても信じていたようですが、友達が遊びに来たとき「これサンタさんにもらった」と言って笑われてからか、サンタクロースは来てくれなくなったようでした。18才の今、「40ギガのIPod、サンタさんに頼もうかな・・・」とわざとらしく言って笑う息子、その手にのるか〜!

2004.12.25.

 


★双子座流星群が見られると窓を開けてみた。月はなく薄く雲は流れていたが絶好の夜空だった。東京タワーの照明だけが邪魔をしていると思っていると、何故か12時にタワーの照明が消された。流星群のために粋な計らい?でもあるまいが、寒い夜空を見上げながら8年前の獅子座流星群を思い出していた。息子が小学校5年生の時だったか、「今日、獅子座流星群が見られるんだって。流れ星なんて見たことないね」「そうだね、お父さんも見たことないなぁ。今夜は徹夜するか・・・」。11月だっただろうか、屋上で毛布にくるまって星空を見上げていた。と、「あっ、見えた。お父さん、見た?お母さん、見た?」。「ほら、また」。ほんとうに流れるような流星群だった。懐かしい思い出である。そういえばあのころは「お父さん、お母さん」と呼んでいたのに、中学に入った頃からか「おやじ、おばじ」と呼ぶようになった。「おやじはいいけれど、お母さんは『おふくろ』じゃないのか」「おやじだから、おばじでいいじゃん」「それじゃおまえは『こやじ』か」「ちがうでしょ、『おこじ』でしょ」。そんな会話も思い出された。そういえば最近「オバジ」なる商品が売り出されたらしい。特許侵害だと息子がいっていた。双子座流星群、今回は残念ながら見ることが出来なかったが、思い出をいくつか見ることができた。

2004.12.14.

 


★病室の空くのが待ちきれず、12月2日に三田のS病院から築地のS病院へ転院しました。ところ変われば何とやら、病院も変わるとシステムetc.いろいろ変わるものですね。入院したその日にCT、レントゲン、血液検査、手術の説明・・・、夕方には手術を受けることができました。コンピューターで管理された院内はカルテを持ち歩くこともなく、退院までの細かな予定表も渡され、一週間で退院の予定でしたが他の科の診療も受けて今日退院してきました。 看護婦さん?やはり白衣の天使でしたよ。でも最近は看護婦さんって呼ばないんですね。看護師さんって呼びます。男性の看護師さんも多いんですね。男性でも白衣の天使?かな。健康のありがたさをつくづく感じているところです。皆さんも健康には十分お気を付けください。

2004.12.10.

 


★再手術と言われて10日になります。かなりひどい風邪をひいていましたから、まず風邪を治してからと思っていました。再入院手続きをして4日、待たされるのはイヤですね。前回の手術の時は、その4日間で意識不明呼吸困難になったのですから、考えると怖くなります。

2004.11.29.

 


★いやぁ、参りました。退院2週間ということで、手術した病院にもどってCTを撮ったのですが、
「山本さん、ごくまれな例なんですが出血が見られるんです。再手術が必要ですね」。
頭の痛みは無いわけではありませんでしたが、手術による外科的な痛みだと思っていました。硬膜下血腫の再発だとは思ってもいませんでした。
「10人に一人くらいあるんです」
と医師は簡単に言うけれど、参りました。今、ちょっとひどい風邪にかかっているので、風邪を治す方が先かなとは思うのですが、「10人に一人」がもう一度あったらどうなるんだろう。

2004.11.21.

 


★今では一般的になったセカンドオピニオンですが、いざとなるとなかなか言い出しにくいものですね。すでに手術は終わっていますし、何の問題もないように思われるのですが、出血の再発が心配でした。CTで硬膜下血腫を見つけてくれた病院と手術を受けた病院が別という私の場合は、見つけてくれた病院に報告をかねてセカンドオピニオンをと思ったわけです。病院がそんなに混んでいなければ2ヶ所でと言うこともなかったのですが、予約したMRIが2週間も先というのが待てずに伝を頼って別の病院で緊急にCTを撮ってもらったわけです。結果、すぐに入院手術となったのですが、元の病院には前回の入院以来の資料がそろっていると言うことで検査と手術が別になってしまいました。幸い手術を受けた病院もCTのコピーと紹介状を書いてくれましたので、今日別の病院でセカンドオピニオンを受けることが出来ました。どちらの所見も同じでひと安心でしたが、自分自身の身体、命ですから迷わずにセカンドオピニオンでもサードオピニオンでも納得のいくまで調べることがいいですね。病院も患者の立場になって対処してくれるといいですね。私の場合、入院前後から4,5日間の記憶が全く無いわけですから、そんなときは家族の付き添いも必要ですね。ほんとうに「記憶にございません」というのは、今日行った病院は2度目ですが何も覚えていない初めての病院のようでした。恐いですね。

2004.11.18.

 


★息子の小学校の時のPTAのお母さんがお見舞いの花を贈ってきてくれました。写真を撮って絵はがきにしてお礼をと思っているところへ、二人のお母さんが寄ってくれました。まるで漫才のような楽しい会話でした。

「私たち病院へお見舞いに行くの似合わないでしょ・・・」
「そうだね、にぎやかすぎ」
「ねぇ、ねぇ、看護婦さんきれいに見えたでしょう、天使みたいに」
「ん、みんなきれいだった。手術が終わって、ここどこだかわかりますかって聞かれて、病院の名前まちがえたみたい。まずいよね」
「だんだん良くなって元気になると天使じゃなくなったりしなかった」
「そんなことないよ、ずっときれいだった。採血の時、手を固く握ってって言われて、思わず看護婦さんの手を握ろうとしちゃった」
「またぁ、仁さんに出来るわけないでしょう。でもよかった元気になって」

 わからないように、そっと入院したんですが、大勢の方にご心配をおかけしました。ほんとうは大勢の方に心配してもらった方がいいんだという方がいました。みんなが心配して、いろいろな方法を考えてくれる、その方がいいんだそうです。それも一理ありますね。ご心配をおかけし た皆さんのためにも一日も早く元気にならなくてはと思う今日です。

2004.11.15.

 


★3日間テスト外泊して、4日の朝また病院にもどりました。午後、CTを撮って、6日の退院がきまりました。ちょっと不安でしたが、時間をかけて経過を見守るより仕方ないということでした。3週間ぶりの退院でした。去年、今年と2年連続の入院手術でしたが、皆さんはこんな時どのようにお考えでしょうか。「ついてないなぁ」とお思いですか。私はむしろ逆に考えています。今まで病気を知らないで生きてきました。そして昨年の大腸ガン、今回の硬膜下血腫、決して軽い病気ではありませんが両方ともクリアして無事退院できたことを「ついている」と思っています。病気そのものは大変でしたが、こうして元気に帰ってこれたこと、生きている、生かされていることを喜んでいます。医師、看護師、家族、知人友人、大勢の人々にささえられて生きていることは、まだ私にはやらなければならない使命があるような気がするのです。使命というような大げさなことではなく、もう少し家族と一緒に過ごすことかもしれませんが、私自身もう少し生きたいと思うのです。生きることの大変なことをあらためて教えられたような気がしてなりません。

2004.11.14.

 


★病院1階のリハビリルームには様々なリハビリ用具があります。固定された自転車を抵抗値を50Wにして毎分50回転くらいで20分こぐのですが、けっこう汗をかきます。それでも数値を見ると消費カロリーは60カロリー、距離にして900m走ったくらいだそうです。27日にCT、抜糸、急速に快復しているようですが不安は残ります。病院が近いせいか 8階だけでも入院中の麻布十番の方にも4人会いました。29日、手術後はじめて洗髪しました。ちょっとこわごわ、ほとんど水を流すくらいの洗髪でしたがホッとしました。11月1日、テスト外泊 が許可されて17日ぶりに家に帰りました。十番の空気、いいですね。無事家に帰れたこと感謝です。「晩ご飯、何がいい?」 「すき焼き!」。病院の起床は6時、朝食7時45分、昼食11時50分、夕食6時、消灯9時。我が家の時計とはだいぶ違っていましたが、慣れると習慣になるものですね。それでも、家に帰ると我が家の時間になっていました。

2004.11.11.

 


★入院から1週間、23日土曜日、新潟中越地震は8階の病室も大きく揺れました。16日から更新していないこのサイトに、更新できないことだけでも書いておきたくて、ホームページの作り方の初歩をノートに書いて家内に渡し、くれぐれも他はいじらないように頼んだのですが・・・。まぁ、無事に翌日には「仁さんの都合でしばらく更新出来ません・・・」がHomeに載ったようでした。10月25日の夕食に小さなケーキが付いてきました。食事係の人が「お誕生日おめでとうございます」。夜の面会に家内が花を持ってきてくれましたが、何とも寂しい誕生日ではありました。まだ朝夕2回1時間ずつ点滴はしていましたが、この日はじめて首から下のシャワーが許され少しすっきり。26日にはおかゆからご飯に食事も変わって、夜の点滴が終わると抜針、点滴もこれで終了でした。メモ帳に「抜針」と書こうと思ったのですが「抜く」という字が思い出せない、地震の「小千谷」の字が出てこない、「リハビリ」が「リフォーム」「リサイクル」・・・。ボケたかなと心配になりました。意識不明、呼吸困難、頭に2ヶ所穴をあけての手術ですから、1週間でここまで回復したことをむしろ喜ぶべきでしょうが、人間って欲張りな動物ですね。良くなればなったでもっと良くなることを願っているなんて。お誕生日を迎えられたことを心から喜ばなくてはいけませんね。

2004.11.10.

 


★記憶にない4日間もそうだったのでしょうが、意識が戻っても動けないわけですからシモの世話も看護婦さんにしてもらっていました。恥ずかしいなんて言っていられないのですが、やはり恥ずかしいものです。Ochinchinも恥ずかしがって余計縮こまってしまうし。気がつくといろいろな方が入院されていて、いろいろな声が聞こえてくるものです。私自身もその一人で何かうわごとを言ったり、部屋でもどしたりしたと聞きました。同室のおじいちゃんは人工肛門で、夜中も何度か看護婦さんがシモの世話に来ていました。一晩中「あ〜、あ〜」と声を出しているおばあちゃんがいました。眠れぬ時は気になっていたその声も、病室が換わったのか3日目から聞こえなくなるとかえって「おばぁちゃんどうしたのかな」と心配になるものです。頭のドレインが取れ、点滴をしながらですが外のトイレに行けるようになると、「たすけてください、たすけてください、・・・」 と話し続けるおばあちゃんを見ました。夢を見ているのか「あの〜、すいません。高島屋の受付の方・・・」と話しかけるおじいちゃん。みんな一生懸命に生きている、生きようとしているんですね。毎日のように新しい患者さんが入院し、また、元気に退院していく人もいる。そして 、看護婦さんはほんとうに大変だなぁと頭の下がる思いでした。

2004.11.9.

 


★ほんとうに白衣の天使だと思いました。手術が終わって意識を取りもどしたとき、周りで世話をしてくれている看護婦さんがみんな天使のように美しく見えました。自分がどんな格好でベッドに横たわっているのかわかりませんでしたが、 鼻に酸素吸入、腕に点滴、頭から左右に2本のドレインが出ていて、痛みは感じませんでしたが、身動きは取れませんでした。入院から5日もたっていたこともその時は知りませんでした。家内と息子と姉と妹の顔が見えて、「何時?」「11時」、それが何日の11時なのか、午前か午後かもわからないまま、また、眠ったようでした。「何時?」「2時ですよ」、夜中の2時だと思っていましたが違っていました。4日間の記憶がないのに気がついたのはずっとあとですが、手術後の12時間は途切れ途切れに目が覚めた長い時間のようでした。

2004.11.8.

 


★3週間ぶりに退院しました。慢性硬膜下血腫と診断され手術を受けました。入院から5日目の10月20日に手術を受けたのですが、その4日間の記憶がすっかり抜けているんです。入院した日はきちんと受け答えして情況を説明していたようですが、何も覚えていないんです。手術が終え、病室に戻って「今日は何日ですか」「?」「20日ですよ」「?」。「入院したのは16日土曜日、今日は20日水曜日?」、まるっきり4日間が空白でした。「俺、政治家になれるよ。記憶にございませんって本当にあるんだぁ」。その4日間、本当に何をやっていたんだろう。96時間の記憶はどこに消されたのだろうか。午後に予定されていた手術は、その日の朝、反応なく意識のない私に、緊急の状態で始め られたそうだ。無論知るよしもないが、後で聞くと空恐ろしくなる時間でした。

2004.11.7.

 


★6日(土)、3週間ぶりに退院しました。まだ、自宅療養的ですがボツボツ、のんびり、ポジティブに日常生活の再開です。入院生活だよりでも書きますか。

2004.11.6.

 


仁さん★前回コラム(10/13)の3日後に入院、未だ入院中です。MRIの予約まで2週間が我慢できず、別の病院でCTを撮ってもらいました。即入院、手術でした。頭痛の原因は 慢性硬膜下血腫でした。原因不明。今日は17日ぶりに外泊許可をもらって帰ってきました。健康っていいですね。三平さんじゃないですが「からだだけは大事にして下さい」ですね。病院に戻るとまた更新が出来ませんが、退院もそう遠くないと思いますので 、これからも「麻布十番未知案内」をご贔屓に、隅から隅までズイ〜〜と、よろしくお願い申しあげます〜〜!仁さん、今、団十郎みたいな頭ですよ。 頭だけですが。

2004.11.2.

 


★7月末からもう3ヶ月頭痛に悩まされている。昨年の手術以来定期的に通っている先生に相談して、CTを撮ってみる。神経内科の先生にも診てもらい薬ももらうが一向によくならない。頭痛と胃痛はわからないことが多いと言われた。ストレス、精神的なものが原因のことが多いそうだ。確かにストレスはあるが、それが原因でこうまで痛くなるのだろうかと病理的な原因がないのか心配である。心配ならMRIを撮ってみましょうか、といわれ予約して帰ってきたのはもう昼過ぎだった。朝から午前中いっぱい病院にいたことになる。病は気からというが、その気を治すのはどうしたらいいのだろうか。考えすぎだよ、もっとポジティブに、明るく楽しくetc.、そんなものだろうか。ストレスの種は確かにあるのだが、それがこうまで影響してひどい頭痛になっているとは考えられないのだが、そうなのだろうか。いやぁ、明るくポジティブにすごしたいなぁ〜〜〜。アハハ!

2004.10.13.

 


雲★28日火曜日の休み、神宮にヤクルト〜中日戦を見に行きました。もしかしたらこのあたりが優勝決定戦かなと事前にチケットを買っておいたのですが、マジック3での対戦でした。ヤクルトファンの息子につられて、最近にわかヤクルトファンもどきの私ですが、稲葉のホームランにおなじみの傘をふって東京音頭を歌って楽しんできました。ヤクルトは負けでしたが、中秋の名月も雲間にちょっと見えて楽しいひとときでした。夕方の空はすっかり秋のうろこ雲でしたが、丸くうろこの落ちた面白い雲を写真に撮りました。ご覧下さい。(クリックすると少し大きな写真)

2004.9.29.

 


★楽天のやりかた、好きじゃないな。まるでLive Door案をたたき台にしていいとこ取りして、大企業の社長を支援者に固めて、世渡り上手、小利口、いやだねぇこういうの。 トヨタや全日空、ウシオ電機、ローソン、カルチュアCC・・・12人のエライさんから助言を受けるんだって、自分で何も考えられねぇのか、もっとシモジモの意見をきけよ。でも、こういうのが世間受けして成功するんだよね。浅野知事も中立を装って裏で三木谷社長と会っていたなんて、オトナの世界ていうか政治の世界ってい うか、いやらしいね、汚いね。Live Door ガンバレ〜!堀江社長を応援したくなるよなぁ。ちょっと興奮して言葉遣いがきたねぇくなっちまった。ゴメン。

2004.9.25.

 

おみやげ
★オーストラリアのおみやげにクロコダイルとカンガルーのジャーキーを頂きました。興味津々、クロコダイルは食べてみましたが、・・・確かにジャーキーの味。でもビーフの方がいい。カンガルーのジャーキーは何となくまだ封を切っていません。


2004.9.23.

 


★その後輩、吉村氏からメールがきた。孫を抱いた写真が添付されていたのだが、「嫁と孫です」と書かれ説明の言葉が食卓の話題になった。添付ファイルを開くまで、私は「嫁」というのを息子さんのお嫁さんと思っていた。ファイルを開くと、どう見ても息子さんのお嫁さんにしては少しふけている。(失礼) 自分の嫁、つまり奥さんとお孫さんということだったのだが、こんな時皆さんはどう紹介しますか。「家内と孫です」とか「女房と孫です」「妻と孫です」の方がわかりやすくないでしょうか。いや、「嫁と孫」でいいと息子、「この写真を見て、息子さんのお嫁さんじゃ失礼だよ」。 「息子の嫁に見られたら奥さんは喜ぶよ、『そんなに若く見られた』って」。 「息子さんは怒るよ」。etc.etc. 「お父さんはお母さんを『私の嫁です』とは紹介しないよ。家内ですとか女房ですとかって言うと思うけれど。お前が結婚したら、お前のお嫁さんを紹介するのに 『嫁です』 っていうだろう・・・」。照れ屋の日本男児としては、なかなか自分の奥さんをうまく紹介出来ないで、「うちの奥さん」とか「うちのやつ」とか「愚妻」とか・・・でしょうか。でも、まぁ、彼の嫁さん、そんなに老けて見えたわけではありません。息子さんのお嫁さんにしてはくらいですから、念のため。とてもかわいいお孫さんの写真でした。

2004.9.21.

 


★「先輩、わかりますか。グリー8期の吉村です」。私が4期生だから、卒業した年に入ってきた4歳下のクラブの後輩だが、すっかり頭が白くなって彼の方が先輩のようだった。その頃は、卒業してからもよくクラブには顔を出していたので、彼の方は覚えていてくれたようだが、40年も経って私はすっかり忘れていた。明治大学グリークラブのホームページからもリンクしているこのサイトを時々見ていたそうだ。「仕事で六本木まで、ちょっと時間ができたので懐かしくて寄りました」という彼は、今 、福井県大野市に住み孫もいるそうだ。学生時代の懐かしい思い出が本当に走馬燈のように頭を駆け巡っていた。グリークラブの後輩は麻布十番と縁のあるものが大勢いる。以前は中元売り出し、歳末セールの福引き所のバイト は皆後輩だった。また、納涼まつりの掃除にも沢山の後輩が来てくれていた。うれしいですね、忙しい時間を割いて寄ってくれた後輩の気持ち。授業では学べない多くの思い出を作ってくれたクラブライフが懐かしい。

2004.9.19.

 


★北海道岩見沢市のM.W氏から久しぶりの便り。北海道新聞9月12日の日曜版に麻布十番が紹介され、きみちゃんのことも書かれていたと新聞を同封されてきた。新聞には切り抜きを考えているところ、気を付けて読もうと思ったところに赤鉛筆で印が付けられ、今は退官されたが大学教授だったM.W氏の人柄がうかがえる。M.W氏と知り合ったのも赤い靴の「きみちゃん」を通してだが、そのころ十番だよりに書いていた「店声仁語」を大学の授業で使わせてもらいましたということ、また、学会で上京された折りわざわざ店に寄って下さったことも懐かしい。退官後も非常勤で続けていた講義もこの3月で全て辞めて、今、身辺整理を始めましたと書かれた手紙には 「中学2年から59年間続けてきた日記をすべて灰にするが可。日記を燃やすことは学生の頃『きけ、わだつみのこえ』を読んで決めていました」 と書かれていた。寂しい気もするが、何となく氏の気持ちがわかるような気もまたする。

2004.9.16.

 


★明日から秋祭り、どうもその祭が苦手な私です。子どもの頃からお祭りでみんなが御神輿を担いでいるときに、本村の釣り堀に逃げ出していたりしたものでした。それでも店をやるようになってからは、御 神酒所つくりの手伝いや神輿、山車の準備くらいは手伝っていたのですが、夜遅くまで御神酒所で飲んで騒ぐのまではゴメンといった感じでした。ここ何年かは準備の手伝いにも顔を出さずに逃げているものだから、すっかりお祭嫌いの変人扱いされています。誰だって苦手なものが一つや二つあるものでしょうが、自分の苦手を言われるのはいやでも、 他人の苦手を酒の肴に飲むのは面白いらしい。そんな雰囲気もいやで、ますますお祭嫌いになっていくようです。はやくお祭りが終わればいいと思いながら、それでも天気になぁれと、人の良い仁さんであります。

2004.9.10.

 


★FAXに宛名が「老人クラブ会長様」というのが入ってきた。港区の老人クラブ連合会から各会長宛に送られた案内のようだが、Fromの電話番号が無いから正確にどこから着たのかわからない。いたずらか、でないとすると、どうして老人クラブ会長どころか老人クラブにも入っていない私のFAX番号が、連合会にあるのか不思議だ。今流行の情報の漏洩だろうか。実害があるわけではないが、相手が老人クラブということで私もそんな歳になったかと、ちょっとがっくりしている。映画は60歳以上1000円で見られるのは知っていたが、ゴルフ場の多くが60歳以上にシニア割引があるのに最近気がついた。喜ぶべきか、まだまだ若いつもりでいた小生としてはこれもまた年寄り扱いのようでがっかりである。定年を65歳まで延ばした証券会社が紹介されていたが、定年の無い商店では65歳どころか70歳過ぎでもまだまだ現役の人が多いのですが・・・。

2004.9.5.

 


★昨日も神宮は熱戦でしたね。前日と同じように、9回に同点に追いつき、石井が投げて五十嵐が投げて、今度は11−10でサヨナラ勝ち。何だかヤクルトファンになりそうな感じがする。あの傘の応援と東京音頭がいいですね。オレンジのタオルを振るのがダサく思われてきました。月末のヤクルト〜中日戦が面白そう、チケットを買っておこうかな。

2004.9.2.

 


ヤクルト石川★五十嵐亮太の150kmを見てみたくて神宮球場1塁側ブルペンの前に席を取った。前回(8月11日)同様相手は広島、1、2点のリードで8回を迎えれば待望の五十嵐が見られる。何せ前回は、15−5でヤクルト惨敗、お目当ての五十嵐は投球練習もしないで引き上げてしまった。今日こそはとヤクルト応援グッズのビニール傘とメガホンを買って、さぁ〜!あれ〜、あれ〜、あ〜ぁ、広島7−1でリードのまま7回、今日も五十嵐は投球練習もしないで帰るのか、と思った8回の裏、ラミレスの満塁ホームランで7−7同点!何とブルペンには右の最速五十嵐と左の最速、アテネ帰りの石井が練習を開始した。速い、速い、かっこいい!デジカメ、携帯を持った若い子がブルペンの前に殺到すヤクルト五十嵐る。9回、石井が登板する。10回、待ってました亮太!156km、2者連続三振、あと一人。で、で、で、打たれた〜〜。10−7、五十嵐降板、なんだぁ。その裏1点差までいったが10−9で広島逃げ切り、敗戦投手五十嵐亮太君。でも、まぁ、いい試合でした。巨人ファンの私が息子につられてヤクルトの傘も振りました、東京音頭も歌いました。思わず引き込まれる熱気、いいですね。今度は外野の応援団席に行ってみようかな。 蛇足ですが、運良くファールボールを拾いました。

2004.9.1.

 


★学生時代のクラブの仲間が今夜集まる。3期先輩から私の代までの4学年のクラブ同窓会である。今朝、新潟の友人から仕事の都合がついたので出席すると連絡が入った。おそらく九州や北海道からも出席があるだろう。卒業以来40年ぶりという先輩もいるようで夜が待ち遠しい。一昔前だったら泊まりがけの地方からでも、「用事が片づいたからこれから行くよ・・・」、近くなったものだ。リアルタイムでアテネの映像を見ながら寝不足になっている時代だが、40年前の学生時代に戻ってどんな話が飛び出してくるか楽しみである。あのころの距離感、今の時代の距離感、そしてまた何年か後のその時々の距離感に慣れて、生活習慣も変わっていくのだろうと、使い慣れない携帯電話を見ながら思った。年寄りには単なる電話も若者にはPC以上のIT必需品、モバイルの使い方で歳がわかる時代のようである。久しぶりに姉に電話すると 「今、立山。室堂にいるの。思ったより寒くないワ!」。年寄りも頑張っているなぁ?

2004.8.28.

 

山本昌平
★麻布十番納涼まつりが終わって、いつもだと蓼科の山の中でボーっと過ごすのですが、今年は何故か家でボーっとしています。この15年、納涼まつりの3日間は赤い靴の女の子「きみちゃん」のチャリティーをやってきました。我ながら良く続いたなぁと思っていますが、それ以上にお手伝いして下さる悪役俳優の山本昌平さん、女優の紅理子さん、作曲家の横山太郎さんには頭が下がります。一口に15年と言いますが、若いつもりの私も還暦を過ぎましたし、三人は私以上のお歳なんですよ。歳のことを忘れて、毎年当然のように「今年もよろしくお願いします」、「ハイ、行きますよ」とやってきたのですが、15年続けることって大変なことですね。恥ずかしいことですが、周囲の理解の無さに私の方が「もう、やめようかな・・・」と何度となく思ったことがあります。その度に、不思議と新しいめぐり合い、ご支援を頂いて今日まで続けることが出来ました。今年もきみちゃんを通して知り合った方々が3日間、ボランティアで手伝いに来て下さいました。イッツフォーフィーズの皆さん、ジャズ・クインテットの皆さん、
いずみたく童謡の会の皆さん、平尾昌晃ミユージックスクールの皆さん、クロスロードアクターズクラブの皆さん、大和証券社会貢献ボランティアの皆さん、そしてチャリティーにご協力下さった大勢の皆さん、本当にありがとうございました。皆さまからお預かりした浄財は、毎日きみちゃんの足元の貯金箱に入れられる浄財と合わせて来春ユニセフニ贈ります。世界の恵まれない子どもたちのために、ど んなに役に立つことでしょうか。そのお手伝いが出来ることをうれしく思い、きみちゃんのチャリティーがこれからも続けられることを願ってやみません。ありがとうございました。

2004.8.24.

 


★体操団体の金メダル、素晴らしいですね。最後の鉄棒では想像を絶するプレッシャーだったのではないでしょうか。日刊スポーツの後藤新弥さんは「躾(しつけ)の美しさ」と題したコラムで選手の努力を讃えている。
『本当に強い選手は、「重圧を受けたら、本来の100%ができなくなることもある。8割でも勝てるように」人の何倍もの練習を重ねる。』
勝てなかった時代について、『・・・遠藤幸雄氏は「大技も必要だが、それを練習の積み重ねで確実にしたとき、初めて美しさが生まれる。そこまで習熟する練習の積み重ねが、なくなった時代だった」と話していた。「大技」へ逃げ、他の強豪と同じように、パフォーマンスで勝とうとした。』
『精神面の強さは、むろん基本重視と、練習にあった。基本とは、例えば手の握り方、輪の持ち方、倒立の姿勢、足先の向きといった基本の基本だ。体操の躾(しつけ)である。今回のチームは、ジュニア時代から「パフォーマンスより、まず基本」をいやというほど仕込まれてきた。どんな時でも、どんな「軽い練習」でも、きちっとした基本を求められた。その土台に立脚した練習の積み重ね、技の開発努力だった。』
 どんな世界でも同じことが言えるのではないでしょうか。基本も出来ていないのに大技のパフォーマンスをしたがる者が目立ちませんか。練習も基礎もなくパフォーマンスを真似ても、美しくもない、底の浅い軽々しさしが見えるだけ。自己反省を込めて改めて体操優勝のVTRを見ています。

2004.8.18.

 


★アテネオリンピックが始まりました。開会式、感激でした。金、銀、銅・・・こだわることない、参加できるよろこびを心から感じ味わって欲しいものですね。マスコミも成績から離れたもっとグローバルな見方で、結果ではなく過程を、見たままを、準備された原稿を読むのではなく感じたままの自分の言葉で報道して欲しいですね。

2004.8.14.

 


★神宮球場、ヤクルトー広島戦を見に行った。先週(3日)ヤクルトー巨人戦を見に行ったときは満員だった球場は、当日券も余裕で買え空席も目立った。ヤクルトファンの息子の希望で1塁側に座ったのだが、広島24安打ホームランも両軍で8本、15−5でヤクルトの完敗。残念がる息子だったが、うちわに書かれたナンバーで抽選されるラッキーナンバーに当たり、次回のヤクルトー広島戦のペア入場券をもらってニコニコだった。 巨人戦の時は5回終了時に300発の花火が打ち上げられ、球場もいろいろ観客動員にサービスを考えているようだが、球団トップももっとファンの立場で経営を考えれば簡単に合併だとか1リーグだとかの結論は出ないだと思うのだが、皆さんはどうお考えですか。

2004.8.11.

 


★山の宿で雨に遭うとちょっとがっくりといいたいところだが、蓼科の宿は雨の日の時間を無駄にしない。近くに美術館や博物館、資料館がたくさんある。この日は山を下り茅野、諏訪の美術館を訪ねることにした。まず訪ねたのが茅野の山下清 放浪美術館。裸の大将 山下清の画は今回初めて見たのだが、まさに感激であった。知的障害とは信じられない緻密な貼り絵は、見る角度により違って見える。細かな陰、立体感、紙にない金色を何枚かの色紙を重ね金色に見せる。夜空に輝く花火の後ろに今消えた花火が黒く浮き出ている。田園のお地蔵さんは お参りする人より大きく描かれている・・・。ギシギシきしむ床、決して立派な造りではない、むしろ粗末な建物の小さな美術館ではあったが、新鮮な驚きと感動を感じたひとときだった。(山下清 放浪美術館、茅野市ちの丁田2764-3 Tel 0266-72-9908)
 諏訪湖のほとりの原田泰治美術館(諏訪市渋崎1792-375 )、サンリツ服部美術館(諏訪市湖岸通り2-1-1)、ハーモ美術館(諏訪郡下諏訪町10616-540)、まだまだいっぱい。それぞれにそれぞれの良さ、雨の日もまたいいものです。

2004.8.5.

 


★早めの夏休みを今年も蓼科の山に遊んでき た。息子がまだ幼かった頃からもう十何年も夏休みというと蓼科がきまった行き先、すっかり覚えた山道も年々新しい道が出来て我が家の古いカーナビには載っていない道路も多い。運転をしながらふとナビを見ると、画面の矢印が道のない畑の中を走っていることもしばしば 。「まもなく有料道路入り口です」のナビの案内、そワインの有料道路ビーナスラインは2年も前に無料開放されている。八島湿原、水草の堆積が1万年の時間をかけて8メートル以上になっている天然記念物。湿原の周囲を高山植物の美しい花々を見ながら歩くと、今年の花は何故か色彩が鮮やかなような気がした。毎年見慣れた花々も年ごとに少しずつ趣が異なって感じられるのもおかしい。ニッコウキスゲの花は今年は早々と姿を消して、秋の花マツムシソウがもう咲き始めていた。ノアザミ、カワラナデシコ、ハクサンフウロ、ホタルブクロ、ウツボグサ、アカバナシモツケ、コウリンカ、キンバイソウ、クガイソウ、ツリガネニンジン、ヤナギラン、シシウド、オミナエシ、オオバギボウシ、・・・。台風の影響の雨にあいながら、また夏の暑い日差しを受ける変わりやすい山の天気、短い夏休み 、地ビールと馬刺しが美味しかった。

2004.7.31.

 


★「近頃の若ものは・・・」とつい先頃まで言われていたような気がするが、いつの間にか言う方の年令になっていたことに気がついた。このサイトを見て「写真を使わせて下さい」と時々申し出がある。無断転載お断りと書いてはいるが、申し出られればよほどのことがないかぎりまず断ることはない。「サムネイルでは小さいので元の写真を借りられませんか」、そんな電話に元写真を探してメールに添付して送ることもしばしばなのだが、そこからが「近頃の若い者は・・・」となる。写真が届きましたともありがとうございましたとも、うんともすんとも言ってこない。「添付が重すぎて迷惑だったでしょうか、写真使えますか」と問い合わせても返事が来ない。今の若者はそんなものだろうか。それともその会社の体質なのだろうか。今、NHKの体質が問題になっているが、今回私が写真を送った出版社も結構有名な某書店と財団法人「某」。親の顔、上司の顔が見たいものだと言うようになっては、私も年寄りの一員になったと言うことか。

2004.7.25.

 


★東京の気温39.5℃、暑かったですね。この暑さの中でゴルフを楽しん?できました。多分グリーン上の気温は50℃以上かな?スコアはともかく1ラウンド無事まわれたことを喜んでいます。プレー後のパーティー、いつものように口の悪い連中の、知らない人が聞いたらケンカのような会話を楽しんで帰りのバスに乗りました。家に帰ってポケットに手を入れると、ロッカーのキー。「あっ!会計をしないで帰ってきてしまった!」すぐにコースに電話して、ネットで支払いを済ませ、キーは郵送で返却。メンバーさんに怒られそうな冷や汗もののミスでした。これも暑さのせいでしょうか、それともボケかな、アハハ。

2004.7.20.

 

★こんなメールをH.Sさんから頂きました。

略・・・楽しく読ませていただきました。なかでも、赤い靴の逸話には、大変感銘を受けました。像があるのは知っていたのですが、赤い靴の女の子が預けられたのが鳥居坂だったとは驚きました。さて、今日メールをお送りしたのは、一つ疑問に思うことがあったからなのです。それは、なぜヒュエット夫妻は、きみちゃんを本国に連れて行かなかったのだろうか?ということです。もちろん、体調が船旅に耐えられないというのが表向き?の理由でしょうが、それなら帰国を伸ばすとか、ドクターを同行させるなどの手はあったと思うのですが、孤児院に残して去ってしまう、というのがなんだか子を持つ親の心境として非常に違和感を感じてしまうのです・・・略

 少し長くなりますが、こんな返信を書きました。

 メール、ありがとうございました。
このHPを立ち上げた理由の一つが「きみちゃん」のことをみんなに知ってもらいたいからでした。その意味で貴兄がきみちゃんに関心を持って下さったことをうれしく思います。きみちゃんのことを調べたのは、当時北海道新聞の記者だった菊 地 寛氏です。私の話は菊地氏の本の受け売りですが、きみちゃんに関わって20年近くになります。麻布十番にきみちゃんの像が出来てからでも16年です。
 私は単純に明治40年頃の、多分病人にはきついであろう船旅が出来なかったのだと解釈しています。また、ヒュエット夫妻がきみちゃんを養女にしたのはきみちゃんが3歳の時ですし、孤児院に預けたのは5歳ですから、きみちゃんを家政婦に的な感覚はないと思います。雨情の「人買船」にあるようなことが教会を隠れ蓑に行われていたと言う方もいますが、人間性善説的な考えの私にはこの説もきみちゃんには関係ないと思っています。また、ヒュエット夫妻ときみちゃんとは関係ないという方もいらっしゃいます。正確なところは確かに疑問が残らないわけではありません。ただ、きみちゃんに関わって、自然発生的に始まった子どもたちのためのチャリティーを続けているうちに、そのようなことは些細なことのように思えてきたのです。事実がどのようであれ、きみちゃんは9歳の短い生涯を精一杯生きていた。そして、今、多くの人々に感銘を与え子どもたちのために9歳のまま歩き続けている、子どもたちのためのチャリティーに役立っている、その事実だけでいいのではないかと思うようになっていました。
 非力な一個人ですが、きみちゃんを通して子どもたちのために少しでも役立てばと思い、この15年間チャリティーを続けてきました。ですから、菊池氏の受け売りですが、きみちゃんのお話を子どもたちに話し、商店街のお祭りでチャリティーひろばを作って大勢の方々に話し続けています。細かなことは考えないで、きみちゃんという不幸な子どもを、今、私たちの社会にふたたび作らないように、親子の絆の大切さを子どもたちに知ってもらいたい思いで語り続けています。大勢の方々のご協力を頂き、これまでに890万円という大きな浄財をユニセフ(一部阪神大震災の義捐金)に送ることが出来ました。金額よりも、何よりも大勢の皆さまに、子どもたちにきみちゃんのお話を通してユニセフのこと、世界の恵まれない子どもたちのことを話す機会を得られたことをうれしく思っています。こうして貴兄と知り合えたように、大勢の方々に会えた縁の不思議さを大切にしていきたいと思っています。 貴兄のメールのお返事にはなっていないかもしれませんが、私のきみちゃんへの思いです。
 メール、ありがとうございました。

2004.7.11.

 


★アクセスカウンターが50000を超えました。また自分で自分をほめています。カウンターはトップページに貼っていますから、直接各ページへのアクセスは数えていません。アクセスログを見ると少なくてもカウンターの2倍以上の方が訪問して下さっているようです。うれしいですね。新しいソフトはマニュアルを読 むだけで眠くなりそうでなかなか取り入れられないのですが、せめて更新だけはまめにやっていきたいと思っています。掲示板のCGIもこわれて今修理中ですが、CGIもよく解らないことだらけ 、やさしい掲示板どこかにありませんか。まぁ、ボケ防止と思って老骨に鞭打ってもう少し頑張ってみましょうか。これからもよろしくお願い申し上げます。

2004.7.2.

 
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