店声仁語−13−(2008.1.〜2008.12.)

店声仁語:目次・・・

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ほほえみ      狩野  誠

いそがしいときに
イライラするときに
くやしいときに
不安なときに

 

 


私はそっと
私にたずねる
あなたはいま
ほほえんでいますか
    ……と

ほほえみ読本

なかなかほほえめない自分がいます。いそがしいときに、イライラするときに、くやしいときに、不安なときに・・・、顔がひきつって、とてもほほえんでなんていられない自分がいます。でも、そんな自分に気がつかない人がほとんどなんです。自分はほほえんでいるつもりで・・・。

 


★クリスマスが近づくと息子がまだ小さかった頃、サンタクロースを信じていた頃を思い出す。どこの家庭でもそうだろうが、親がサンタクロースを演じてプレゼントを用意し、こどものよろこぶ姿を見て親も一緒によろこんだものだ。
  「サンタさんに何か頼んだか」
  「ん、エレファントノーズ」
飼い始めたばかりの熱帯魚のカタログから珍しい魚をたのんだというのだ。近所の熱帯魚ショップにエレファントノーズはなく、やむなくちょっときれいな「インペリアルゼブラプレコ」をたのんでおいた。イブの夜、水温を気にしながら隠しておいた熱帯魚を水槽に移し、
  「エレファントノーズ」は見つからなかったのでインペリアルゼブラプレコを持ってきました。大切に育ててください」
とサンタさんからの手紙を添えておいた。翌朝、
  「お父さん、お父さん、サンタさん来てくれたよ。ほら、見て見て、インペリアルゼブラプレコだよ。エレファントノーズつかまらなかったんだって」 「サンタさんって雪国に住んでいるんだよね。どうやって熱帯魚つかまえたんだろう」
嬉々とした息子の様子が今でも思い出されて口元がゆるんでしまう。

その息子も大学生、先日夕食のときに聞いて見ました。
  「サンタさんに何か頼んだか」
  「あぁ、しばらく頼んでいなかったから今年は久しぶりに頼んでみようかな」
  「欲しいものあるのか」
  「いろいろあるけれど、景気悪いしなぁ。ゲームソフトひとつくらいなら何とかなるかな」
  「・・・・・」

2008.12.19.

 

★「十番だより」12月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 10 ─  麻布 一本松のこと

一本松 身のまわりの普段何も考えることなく見過ごしていることで、あらためて見てみると何なんだろうということありませんか。今回はそんなことのひとつ「麻布一本松」を見てみました。パティオ十番からピーコックの前を通り過ぎ西に行くと大黒坂、一本松坂と続きます。その坂上に一本の松があります。石垣で囲われ御神燈と書かれた石塔、由来を刻んだ石碑もありいかにも由緒ありげな松の木です。石碑にはこう書かれています。
「江戸砂子によると天慶二年西紀939年ごろ六孫源経基 平将門を征服しての帰途此所に来り民家に宿す 宿の主粟飯を柏の葉に盛りささぐ 翌日出立の時に京家の冠装束を松の木にかけて行ったので冠の松とも云い又一本松とも云う 古樹は明治九辰年焼失に付き植継 昭和二十年四月又焼失に付き植継」
一本松については他にもいろいろな説があります。もともと古墳であったという説や江戸初期には「首吊塚」とも呼ばれて、関が原の合戦で送られてきた首級を家康が検分し、埋めた所だというのです。また、京から来られた「松の宮」という高貴な方がここで亡くなり、介抱した小野某が衣冠と共に埋葬し、墓の目印に松を植えて冠の松と唱え、かたわらの草堂に如意輪観音像を安置して弔った。小野某の死後、観音像は長伝寺へ移したという説。その他にも小野篁が植えた、徳川家康が植えた、秋月邸の羽衣の松、など数々の説があります。
 石碑に書かれた天慶の乱(平将門の乱)を治めた源経基の冠の松説は、一本松をご神木とした麻布氷川神社の由緒ともかさなるものです。一本松がその時の松とすると樹齢千年の大木ですが、残念ながら一本松は何度か焼失し植え継がれてきたものです。石碑に書かれた明治九辰年焼失はおそらく明和九辰年の誤りではないでしょうか。明治九年は辰年ではなく子年ですし、「メイワク」大火で知られる江戸の大火は明和九年辰年(1772)です。石碑と一緒にある御神燈の横には「文化四丁卯年八月」(ぶんか四ひのとう、1807)と彫られています。
一本松絵図 天保五年(1834)天保七年(1836)に刊行された「江戸名所図会」に描かれた「麻布一本松」は、松のたもとに茶屋や長伝寺が描かれています。明和の大火で植え継がれて六十年にしては大木に描かれていますが、おそらく画家長谷川雪旦は伝え聞いた古木の高さ三丈六尺八寸、枝は東へ二丈、西へ二丈六尺、南へ一丈六尺、北へ一丈六尺、根回り五尺八寸という大きさを画いたのかもしれません。この図会に見られるお茶屋は「ふじ岡」、作家池波正太郎は鬼平犯科帳「麻布一本松」のなかでこの「ふじ岡」を舞台に使っています。
 一本の松の木からいろいろな物語が想像されるものですね。松の木の大きさ、丈、尺、寸と古い単位で書きましたが、メートル法に直すと・・・、計算してみてください。一丈は約3.03m、一丈は十尺、一尺は十寸です。 (江戸名所図会 麻布一本松 クリック拡大)

2008.12.5.

 
★「十番だより」11月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 9 ─  麻布山善福寺の逆さ銀杏のこと

逆さ銀杏 秋になるといちょうの木の黄葉がそこここに見られます。麻布十番周辺でも一の橋から二の橋へのバス通りの街路樹はいちょうです。また、網代公園、賢崇寺、善福寺にも大きないちょうの木があります。銀杏、公孫樹、鴨脚樹といちょうを表す漢字も幾つかありますね。いちょうは雌雄異株でギンナンのなる雌株とならない雄株があります。「さかさ銀杏」「杖いちょう」と呼ばれている麻布山善福寺のいちょうの樹は雄株、大正15年に国の天然記念物に指定された大木です。
 善福寺の境内にあるこの大いちょうは、貞永元年(1232)、親鸞上人が京都への旅の途中に立ち寄ったときに、持っていた杖を地にさし、「念仏の求法、凡夫の往生もかくの如きか」と言われると杖が根付き枝葉が繁茂したといわれて、「杖いちょう」の名前の由緒になっています。また、つらら状の枝(気根・乳根)が上から何本も垂れ下がり、まるで根が上にあるように見えることから「逆さ銀杏」とも言われています。樹齢約750年の大いちょうは、樹高約20m、幹周り10.4mもあり、いちょうの木としては都内最大のものとして国の天然記念物に指定されています。
 善福寺一帯は、昭和20年5月25日の空襲で多くの焼夷弾をうけ、本堂は全焼、いちょうの木も大きな被害を受けましたが、今では本堂も再建され、逆さいちょうも樹勢強く生い茂っています。戦後60年経った今でも黒く炭化した焼け跡が痛々しく残っています。また、「江戸砂子」には乳の出が悪い母親が、このいちょうの樹皮で治療すると乳の出が良くなると噂され皮を剥ぐ者が後を絶たなかったので、周囲に垣根を作って禁止したと書かれています。乳根(気根)が何本も垂れ下がっている様子が「乳の出」につながったのでしょうか。
逆さ銀杏 麻布十番周辺ではこの「逆さいちょう」や賢崇寺の大いちょうのほかにも大きないちょうの木があります。一ノ橋と中ノ橋の間、三田一丁目(旧小山町)にあるいちょうの木は、樹齢約400年といわれ根元に銀杏稲荷大明神(白滝稲荷神社)をお祀りしています。
 芝公園の東照宮境内のいちょうは、目通り幹周り8m、樹高30mで、1639年の東照宮再建に際して三代将軍家光公のお手植えと伝えられています。巨大な3本の枝が伸びている姿は見事で、都の天然記念物になっています。都内のいちょうの大木は、このほかに府中の大国魂神社、雑司ヶ谷の鬼子母神にあるものが有名です。東京都のシンボルマークは東京のTといちょうの葉をデザインしたものですね。神宮のいちょう並木も黄葉の美しい季節になりましたね。   (焼けて炭化した戦争の傷跡が残っています→)

2008.11.1.

 


★難病で寝たきりの信州の友人が柿をたくさん送ってくれました。5月の柿の花からときどきBBSに写真と書き込みを送ってくれた「信州人」さんです。たくさんの実が枝についたままの情態で送ってくれました。柿の花を見たのはその写真がはじめてでした。少しずつ大きくなる柿をベッドの上から見続けて季節の移りかわりを感じ知らせてくれるBBSの書き込みは重労働だと思うのですが、寝たきりの彼にはインターネットを通して外の世界とつながる楽しみなのだそうです。摘果が出来ないので実が付き過ぎてなかなか大きくならない柿の実が、やっと送れる大きさになりましたとメールがきました。今日、ヘルパーさんに頼んでとってもらい送られたきた柿の実に、時間の重さが感じられました。信州人さん、ありがとうございました、厳しい冬に向かいます、ご自愛下さい。みなさんも健康第一ですね。そうそう、今日は私の誕生日、何よりの誕生日プレゼントでした。

柿の花5月 柿の花6月 柿7月 柿8月
 5月28日柿の花  6月28日  7月13日  8月10日
柿10月 柿10月 柿の実 柿の実
 10月17日  10月24日  10月25日 届きました  変形 くっついた実

2008.10.25.

 

★「十番だより」10月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 8 ─    大法寺 大黒さまのお話

大法寺 一本松坂に大黒さまと親しまれるお寺があります。栄久山大法寺です。大法寺は慶長2年11月(1597)、慈眼院日利上人によって創建されました。享保15年(1730)日舜上人の時、法華経三万部読誦の功徳によって不思議な大黒天尊 像を感得されました。この大黒像が伝教大師作「三神具足大黒尊天」です。この像は、もとは麻布六本木の旧家伊勢屋長左衛門の秘仏でした。ある夜、長左衛門の夢枕にご尊像が立ち、
 「我れ汝の家にあること久し、今法華経読誦の功徳により法華経守護の為め大衆に福寿を授けんことを誓い法華経読誦の地に往かん」
と告げられました。翌朝、長左衛門が夢からさめて、この秘仏を拝もうとしますが、不思議なことにご尊像のお姿はありませんでした。長左衛門は近隣に法華経読誦の地を捜し求め、一本松の日舜上人が法華経三万部読誦されたことを知り、また、不思議なことに消えた秘仏が上人のもとにあることをしりました。長左衛門は日舜上人に霊夢を語り、ご尊像を献納されたのです。大法寺五世日亮上人は、ご尊像の霊夢を知り大衆に福寿を授けることを誓い、日舜上人よりご尊像を拝受し永代大法寺に奉安し大衆帰依の道を開きました。大法寺は江戸時代には赤門寺と呼ばれ、甲子の祭日には縁日が盛んで賑わいました。縁日は戦後も5、15、25日に立ちましたが、今は行われていません。栄久山大法寺というより一本松の「大黒さま」として親しまれています。ご尊像「三神具足大黒天」の「三神具足」というのは、ご尊像のお姿が大黒天の小槌を持ち、弁財天の髪をいただき、背には毘沙門天の鎧をつけているところから、大黒天の福寿と弁財天の円満と毘沙門天の除災得幸を表して居られると讃えられています。
 さて、大黒天は福徳や財宝を与える福の神ですが、原形は闇の神様です。大黒は梵語の摩訶迦羅マハー・カーラ の訳で、マハーが大で、カーラが黒です。ヒンズー教ではシヴァ神の化身で、シヴァ神が世界を灰にする時この姿になるとされています。また姿も七福神の大黒さまとはかなり異なり恐ろしい姿をしています。曼荼羅の中に描かれている大黒天は後者に近い姿です。密教では自在天の化身です。

大黒天御朱印
七福神の大黒さまは、狩衣のような服を着て頭巾をかぶり右手に打出の小槌、左手に大きな袋を背負い、米俵の上に立っているのが一般的です。俵に乗っている由緒は「毎日ご飯を供えてお参りすれば、一生食に不自由はさせない」というお告げが、いつの間にか米俵と結びついたようです。食堂や台所にまつられることが多く、そこから転じてお寺の婦人(僧侶の妻)を大黒さまと呼ぶこともあります。また、建物の中心となる太い柱を大黒柱と呼びますが、これは大黒さまが天・地・人を守る事から屋台骨を支えるものをこのように呼びます。神道では大国主命(おおくにぬしのみこと)と大黒天を結び付け、大国天とすることもあります。神社にまつられる七福神では大国天が多いようです。
 大法寺の三神具足大黒天尊像は秘仏として普段は公開されていませんが、広く大勢のみなさまに福寿を授けたいというご住職のお気持ちにより御影を御朱印に写され、御朱印をいただくことで三神具足の大黒さまを知ることができます。大法寺にはこのご尊像のほかにも多くの大黒天像が祀られ、御利益多いお寺としてお参りされています。

2008.10.9.

 


★「十番だより」9月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 7 ─   麻布 氷川神社の宮神輿のこと

麻布氷川神社宮御輿 9月は秋祭りということで、もう一度氷川神社のもどってみましょう。前回も書きましたが、氷川神社には久しく宮出しされたことのない大きな宮神輿があります。昔、牛が引いたと聞いていたのですが、その牛に引かれた宮神輿の絵図が本村町会に保存されていることがわかり、本村町会のご厚意で見せていただきました。絵図は古く一部見にくいところもありましたが、PCで修復してみると図のように2頭の牛に引かれた華麗な行列を見ることがでしました。
 絵図では右から左へ、行列の先頭は太鼓、その後ろには木遣りを謡うとび職たち、牛に引かれた山車にはお囃子と大きな金色の獅子頭が一対(獅子頭山車)、世話役、猿田彦(鼻高面、天狗)、大榊、先導騎馬神職、朱傘、日像旗、月像旗、五色旗、騎馬禰宜、朱傘、御楯、御鉾、御弓、雅楽連、そして二頭の牛に引かれた宮神輿、馬車に乗るのは宮司でしょうか、さらに神社町内役員、町内氏子、辛櫃と続いています。絵図には書かれていませんが、この行列の後ろに氏子各町会のお神輿や山車が続き壮大な渡御が行われたのだと思われます。
 昔の祭礼ではこのような渡御が行われたようで、『武江年表 巻之八』に「寛政3年(1791)8月17日、麻布本村氷川明神祭礼出し練物等出る(其の後休む)」と書かれています。また、天保9年刊の『東都歳時記』には「町々より踊りねり物花出し等出す」とあり、「壱番=宮下町、弐番=本村仲町、三番=本村上ノ町、四番=一本松町、五番=三軒家町、六番=宮村町・新道町、七番=南日ヶ窪町附り北日ヶ窪町、八番=宮下町附り麻布新網壱丁目同弐丁目」と書かれています。(参照、山車・だんじり悉皆調査) 今のような太鼓を乗せただけの山車ではなく、それぞれの町の山車人形を乗せ練り歩いたようです。天保3年の版画「麻布氷川大明神御祭礼番付」では、壱番宮下町・南日ヶ窪町「三番叟の山車」、貳番本村仲町「鍾馗の山車」、」、参番本村上ノ町「武内宿祢の山車」、四番一本松町「鷹万度引物」「牡丹石橋の山車」、五番三軒家町「猩々の山車」、六番宮村町「金太郎、熊の山車」「山姥山賊の引き物」「大江山鬼の引き物」「花篭の山車」「雨乞小町引き物」「花万度引き物」、八番宮下町「汐汲の山車」「楠木正成と多聞丸の人形引き物」、新網町「鬼海ケ島の人形引き物」等々が読み取れます。(版が古く不鮮明でしたので読み取れたところを書き出してみました)。これらの山車の後ろに各町会の御輿が続いたようです。
 昔の祭礼、今とはずいぶんと違っていたようですね。さて、氷川神社の宮神輿、昭和初期、神田・宮惣の制作、台輪寸法四尺。絵図は新調された宮神輿の初めての渡御、乙亥九月(昭和10年)を描いたもののようです。 私見ですが、昭和8年12月23日は平成天皇陛下のお誕生日です。昭和の時代に初めての皇太子殿下ご生誕を祝して宮神輿新調ということも考えられないでしょうか。

麻布氷川神社宮御輿渡御絵図

2008.10.2.

 


★夏休み旅行−4−
小樽 きみちゃん像 三日目(8/28)、定山渓温泉から道道1号「ゆらぎ街道」を小樽に向かう山道は定山渓ダムがつくったさっぽろ湖が静かだ。対向車もほとんどないはしりやすい道に、免許取り立ての息子に「運転してみるか、練習になるよ」 「初心者マークがないよ」。大丈夫だよと言っているところに、何とパトカーがやってきた。こんな山の中にもパトカーがと、と、何台も続いて来る。朝里峠を越え朝里ダムにかかるところで検問、定山渓で事件があったという。「運転替わらなくってよかったね」と息子。
 小樽の赤い靴の女の子「親子像」の作者 ナカムラアリさんから電話「小樽駅前で待っています」。昨年麻布十番のきみちゃんを訪ねてくださったアリさんと再会、運河公園に向かう。運河公園の親子像のところには、小樽観光ガイドクラブの倉重会長さんが出迎えてくださる。ふっくらと可愛小樽きみちゃん像らしいきみちゃん、優しく温かく見つめるかよさん、志郎さんのまなざしが印象的だ。台座のボタンを押すと「赤い靴」のメロディーがながれてくる。「横浜、静岡、留寿都、麻布十番、そして小樽、来年には函館にもきみちゃんの像が出来ます。各地を連携し、母と子の愛を、親子の愛を語り合うシンポジウムが開かれるといいですね」とアリさん、倉重さんのお話、ぜひ実現させたいが、麻布十番よ 協力してくれるか!
 運河公園の前に重要文化財に指定されている旧日本郵船小樽支店の建物がある。ここで日露戦争後の樺太の国境が決められたのだそうだ。車を北に祝津のニシン御殿を見学、小樽市内に戻り・・・見たいところがいっぱいあるのに千歳発の帰りの便は18:30、時間がない。なのに、なのに、「小樽のおみやげはルタオのケーキとチョコレートってきめていたぁ〜」ときたもんだ。「お鮨も食べたかったぁ〜」「旧日本銀行小樽支店も見たかったぁ〜」「羊ヶ丘公園のクラーク像も見たかったぁ〜」「・・・」「・・・」
ポスター 初めての北海道、初めてのレンタカー、初めてづくしで時間が足りない。やっとレンタカーを返して新千歳空港へ。やれやれと思ったら「ここで花畑牧場の生キャラメルを買う〜」「さっさと買ってこい」。それがとんでもないものだと知らなかった。行列、行列、行列・・・。1時間も並んで、「もう間に合わないからあきらめろ」「先に搭乗手続きに並んでいるからすぐ来いよ」。イライラ、ドキドキ、時間切れ寸前に「やっと買えたぁ〜」ってやってきました。もう〜!疲れる。
 心配していた天気も何とかもって、ひどく降られることなく二泊三日500kmドライブの旅 無事終了。羽田はどしゃ降りでした。

2008.9.19.

 


★夏休み旅行−3−
留寿都きみちゃん像 二日目(8/27)の朝、雨の天気予報が運良くはずれて曇り、朝市に出かけてみる。大きなカニ、魚、貝・・・ 、おみやげにたらば蟹を送って、市場の食堂で海鮮丼の朝食、ホテルに戻って二日目のナビをセットして出発。 新日本三景の一つと言われる大沼公園、少し霧雨で渡島富士といわれる駒ヶ岳は残念ながら見られず、それでも沼に点在する島の松島のような風情を楽しむ。内浦湾を右に見ながら北留寿都かよさん像へ、湾を見下ろす丘の上のレストランでひと休み、道央自動車道に入って洞爺湖へ。先頃のサミット会場のホテルを山の上に見ながらレイクヒル牧場で昼食、ソフトクリームが美味しい。展望台からの洞爺湖は中島まではっきり見えるのだが、有珠山、昭和新山は雲の中、国道230号を北に駆る。
 留寿都村、サミットではプレスセンターがおかれたところだが、赤い靴の女の子きみちゃんの「母思像」がある村である。村役場を訪ねると麻布十番にきみちゃんを訪ねてくれた森雅志住民福祉課長が迎えてくれる。森さんの案内で1991に出来た母思像、少し離れた道の駅ルスツ230に立つ母かよさんの像「開拓の母」を初めて見ることが出来た。国道沿いにあるせいか母思像のブロンズが黒く風化していること、好意で塗ったのか靴のリボンに塗られた赤いペンキが流れているのもモニュメントの管理のあり方として気になった。莫大な費用をかけて作っただろうプレスセンターも住民の見学も許されることなく取り壊されるという話しだった。
 230号を少し西にそれ尻別国道をいくと京極町のふきだし公園がある。羊蹄山の地下水が湧くこの水は日本の名水100選の一つだ。230号にもどり中山峠を越えると今日の宿定山渓温泉だった。この日約300km走行。   写真は左 赤い靴の女の子きみちゃんの像 「母思像」、右 「開拓の母」かよさんの像です。

2008.9.12.

 


★夏休み旅行−2−
 初日(8/26) 夏休みの機内は500名ほぼ満員、非常口横の席は離陸時に客室乗務員が向かい合って座る。
 「恥ずかしいね」
 「私の方が恥ずかしいですよ。みなさんがこっちむいているんだから」
函館昼過ぎに函館着、レンタカーを借りて市内見学コースにナビを設定、一日目のスタート。日本最初の女子修道院 トラピスチヌ修道院 へ(左写真)。初めての道、初めてのレンタカー、使い慣れないせいかナビの声が訛って聞こえる。「あっ、今の交差点右折だった!」「・・・」。五稜郭、近くの駐車場に車を止めガードマンのおじさんに 「ラーメンの美味しいところありますか」。30分も並んで700円の塩ラーメン、こんなもんかな。五稜郭は90mのタワーの上から見下ろすとまさしくペンタゴンだ。タワー展望台には彫刻家小寺真知子さん制作の土方歳三の座像が、1階には立像が飾られている。同じ作家が来年函館東浜桟橋に「赤い靴の女の子・きみちゃんの像」を創る。その東浜桟橋、赤レンガ倉庫群方面に車を走らせる。目的地近くの駐車場はどこも満車、やむなく少し離れたところに駐めて歩いて見て回ることに。「こんな遠くに駐めてぇ・・・」とケンカの始まり(-.-)。
 函館山から港に向かって幾つもの坂が並行している。大三坂を上りカトリック元町教函館会、チャチャ登り、聖ヨハネ教会、ハリストス正教会、山裾を西にまわるように旧函館公会堂、旧イギリス領事館、元町公園。ペリー提督来航記念碑も小寺真知子さんの作品だ。基坂(もといさか)を下って海岸へ。北海道第一歩の地碑、東浜桟橋(右写真)に着いた。明治初期、北海道に渡るのはこの東浜桟橋からだったという。まだ赤ちゃんだったきみちゃんを背負って、かよさんが下り立ったのもこの桟橋だったのだろう。そこに来年赤い靴の女の子の像が出来ると思うと何とも言えない感じだった。赤レンガ倉庫群をもう一度見ながら、ちょっと離れた駐車場に。「にんな遠くに駐めるんだからぁ」  ケンカその2 (-_-メ)  「私は遠くに駐めるのが好きなんです。あなたとはちがうんです」 (*^・^*) どこかの首相?
 夕方降りはじめた雨も夕食後にはあがり、三大夜景のひとつ函館山の夜景を見て、昼間見た教会や旧公会堂のライトアップを見ながら宿に、一日目はなんとか無事。

2008.9.7.

 


★夏休み旅行−1−
 「今年の夏休みどうするの」
 「納涼まつりが終わったら3、4日休めばいいだろう」
 「で、どこに行くの」
 「休みだから家でのんびり休んだら、休みはどこかに行かなければいけないってわけじゃないだろう」
 「・・・・」
どこかに行きたいのなら自分で計画たてて、旅館とか切符とかレストランとかいろいろ予約してやってみたらいい。どこへ行ったって文句ばかり言って、自分でやってみれば大変さがわかるだろう。と、まぁ、どこの家庭でもよくあるようなやりとり。どうせ何もやらないだろうと思っていたのだが。
 「北海道、二泊三日、レンタカーで函館から札幌までのコース申し込んできたっ」
 「二泊三日で北海道?レンタカー?誰が運転するの!」
 「・・・・・」
旅行前日まで、送られてきたクーポン券も見ないで、「いいか、俺はお客さん、ついていくけれど全部自分で仕切れよ」とふてくされていた。同行の息子には 「多分途中でケンカすると思う、お前、中に入れよ」、そんな旅立ちだった。
 実は私だけが北海道ははじめて。自営業というのは時間が自由になるようで、実際には時間がなかなかとれないものだ。天気予報は3日間とも雨の予報、ついていないなぁって感じで羽田へ。私だけが金属探知でひっかかる、携帯を鞄に入れなかったのがいけないらしい。旅慣れていない、(-.-)。機内で二泊三日のコースを短期講習。レンタカーのナビ、家のと違う、大丈夫か!etc.etc。あらためてコースを見ると、初日函館市内見学コース、二日目、大沼〜八雲〜洞爺湖〜京極〜定山渓温泉泊、三日目、札幌、小樽市内見学とある。これは、ひょっとして、いいコースだぞと思い当たった。20年来関わってきた「赤い靴の女の子・きみちゃん」の北海道コースなのである。函館の東浜桟橋には来年きみちゃんの像が出来る予定だし、五稜郭タワーにある土方歳 三の像や 元町公園のペルー提督来航記念碑の制作者小寺真知子さんは、新しくできるきみちゃん像の制作者でもある。洞爺湖から定山渓 温泉への途中 、赤い靴の「母思像」と母かよさんの像がある留寿都村を通る。そして、小樽には昨年完成した「親子三人の像」があり、制作者のナカムラアリさんがいる。家内は他の目的で選んだコースなのだろうが、赤い靴コースにアレンジしてレンタカーのナビを設定してやろう。3日で500kmの運転は免許取り立ての息子にはチト無理かな、と、「初心者マーク忘れた!」。わざとかな・・・。つづく

2008.8.30.

 


ポーチュラカ★店の前の歩道に小さな花壇があります。港区の管理なんですが水遣りや雑草取りはヒマ仁さんのお仕事 (*^・^*) 。今、ポーチュラカとブルーサルビアが植えられているのですが、面白いことに気が付きました。松葉牡丹に似たポーチュラカ、まだ日が沈まない4時頃に花を閉じはじめるんでポーチュラカす。早寝なら早起きかなと思って、朝見ているとけっこう朝寝坊、 6時頃にやっと咲き始めます。それでも、おいらより早起き (^_^メ) 。些細なことですが、きれいに咲いた花がまだ明るい5時頃にはすっかり花を閉じてしまうことに、みんな気が付かずに通り過ぎているんですね。気をつけて見ていると、身の回りに面白いこといっぱい、今日はブルーサルビアにモンシロチョウとシジミチョウが来ていました。暦の上では立秋ですが、まだまだの暑さですね。(写真 左上13時のポーチュラカ、右は同じ角度で17時のポーチュラカです)

2008.8.8.

 


★連日の暑さ、さっぱりした昼食をと冷や麦を用意した家内、息子に

  「お昼よ〜、早く食べて学校行かないと遅刻するわよ」
  「わかった。で お昼 なに?」
  「暑いから 冷や麦よ、Mさんにお中元で頂いたから」
  「冷や麦とか素麺とか 好きじゃないんだなぁ」
  「しょうがないでしょう まだいっぱいあるわよ」
  「今度さ おそばかうどんにして下さいって言ってよ」

言えるわけないけど、Mさんこのサイト見てるかもしれないから来年に期待して、今日は冷や麦食べて行きなさい。アハハ。

2008.7.17.

P.S. Mさんから早速メールがきました。
『おっ!店声仁語が更新されてる!って身を乗り出したら、何!コレ僕のこと?全国サイトに出ちゃって嬉しいな・・って感じ。来年から、おそばかうどんにします。悠貴くん、MISAさんに宜しくお伝えください。MASAさんヨリ (アハハ・・)。 ところで
「遅バカうどん」なんてうどんがあったら面白いね。今後も店声仁語楽しみにしています。』

「おそば か うどん」が「遅バカうどん」?面白いですね。来年は「遅バカうどん」をよろしくお願いします、MASAさん。アハハ。

2008.7.18.

 


★「十番だより」7月号に寄稿しました。
住居表示が現在の表示に変わって何年経ったでしょうか、昔の町名を覚えていますか。なんとなく懐かしい町名を書いてみました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 6 ─   旧町名について

 氷川神社辺りは今、元麻布という地名ですが、旧町名には本村町、西町、一本松町の地名がありました。その一つ西町は門前西町が古称でした。同じ旧町名に東町、山元町という地名もありました。お気づきですね、麻布山善福寺の門前東町、門前西町、善福寺山元町ということだったんですね。東町小学校、西町スクール、本村小学校、笄小学校と学校名に旧町名が残っていますね。
 麻布十番は今一丁目から四丁目まで、周辺に麻布台、東麻布一〜三丁目、西麻布一〜四丁目、南麻布一〜五丁目、元麻布一〜三丁目と麻布の付く地名が六地区あります。古い町名が残っているのは麻布狸穴町と麻布永坂町だけです。これに六本木一〜七丁目を加えた地域が港区の麻布地区です。
 町名が今のように変わったのは昭和三十七年(1962)の「住居表示に関する法律」が施行されてからです。この法律に基づいて昭和四十一年(1966)四月、麻布東町、麻布竹谷町、麻布本村町(一部)、麻布新堀町、麻布富士見町、麻布盛岡町、麻布広尾町、麻布新広尾町を合わせ「南麻布」が誕生します。次いで麻布西町、麻布一本松町、麻布宮村町、麻布本村町(一部)、麻布山元町(一部)が「元麻布」になります。昭和四十二年(1967)には、麻布笄町と麻布霞町の大部分、麻布材木町、麻布桜田町、麻布三軒家町、赤坂青山南町、赤坂青山高樹町などの各一部を合わせて「西麻布」が、そして、麻布六本木町、麻布市兵衛町、麻布箪笥町、麻布今井町、麻布仲ノ町、麻布三河台町、麻布北日ヶ窪町、麻布鳥居坂町、麻布龍土町、麻布谷町、麻布霊南坂町、麻布榎坂町、麻布飯倉片町、麻布桜田町、麻布霞町などの全域、または一部を合わせ、現在の「六本木」が誕生しました。
菓子器 「麻布十番」は麻布網代町の全域と、麻布坂下町、麻布新網町 二丁目、麻布南日ヶ窪町、麻布宮村町、麻布一本松町、麻布山元町などの一部を合わせて、その後、若干の町域変更を経て昭和五十三年に今の表示になりました。「麻布台」は麻布我善坊町、麻布飯倉町一〜三、六丁目の全域に、飯倉片町と麻布狸穴町の東半分を合わせ町域を、「東麻布」は、麻布北新門前町、麻布森元町、麻布飯倉町五丁目、麻布新網町 一丁目のほぼ全域と、麻布飯倉町四丁目・麻布狸穴町・麻布永坂町の各一部を合わせ、昭和五十六年(1981)の区画調整を経て現在の「東麻布」となりました。

菓子器 蓋 皆さんがお住まいのところの旧町名、ご存知でしたか。住居表示はこのように変更されましたが、ご年配の方には旧町名の方が場所がわかるという方も多いですね。現在でも旧町会には町会長はじめ町会の組織があります。秋の祭礼のお神輿は旧町会が維持運営していますし、行政からのお知らせ回覧板も旧町会で回しているところが多いようです。万が一の災害時には旧町会の組織が災害対策として機能するでしょう。古い町名を懐かしむだけでなく、新しい町名が単なる住居表示ではなく災害時にも機能する地域組織に発展することはないのでしょうか。温故知新、新しい街づくりをこのような視点からも見直さなければならないのかもしれませんね。
 (写真の菓子器のふたには「紀元2600年町会創立50周年記念・坂下町会」と書かれています。ということは麻布坂下町が出来たのは明治23年でしょうか。)

2008.7.3.

 


★大リーグの日本人選手の活躍はうれしいかぎりですが、試合後のインタビュー、カブス福留孝介 選手の仏頂面何とかならないでしょうかね。仏頂面だけでなく、話す内容もつっけんどんな感じ、見ていて聞いていていい感じはしないなぁ。

【福留トーク】 「仕事をしたとは思わない」  2008.6.12 SANSPO.COM から。

< 鮮やかな逆転勝利 >
 「今のチーム状態からいって、1点ずつ返していけば何とかなるという感じです」
< 第1打席はグラビンからの安打 >
 「名前で野球をやっているわけではない。そこまで意識しなかった」
< 第3打席は元阪神(01、02年)のカーライルとの勝負 >
 「試合前に話しました。(阪神時代の)イメージはないですね」
< 4試合ぶりのマルチ安打 >
 「自分が思っているところにバットが出ていく回数が、少しずつ増えているのが、自分の中でみえます」
< 盗塁も決めた >
 「2球続けて牽制(けんせい)球がきたので、3度目はないだろうと、ヤマも張りました」
< 勝利に貢献した >
 「そんなに仕事をしたと思わないです。普通の1日ではないですか」

相手先発は300勝投手のグラビン。技巧派左腕に対し、「名前で野球をやるわけじゃない。意識はしなかった」とは失礼な。まぁ、仏頂面のインタビューも顔でインタビューするわけじゃないが、愛素っ気がなさ過ぎ、無愛想、 おいらは好きじゃないなぁ。

2008.6.26.

 

★「十番だより」6月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 5 ─

宮御輿 元麻布の氷川神社の続きです。各地に「氷川神社」がありますが、神社本庁のデータでは、「氷川」の名の付く神社は全国で261社、東京都には68社あるそうです。氷川神社の本社は埼玉県大宮に鎮座する旧官幣大社・武蔵国一ノ宮の氷川神社です。
 麻布氷川神社は天慶五年(942)の勧請ですから千年余の歴史のある麻布の総鎮守のお社として、また江戸氷川七社の一社として崇敬されてきました。江戸氷川七社とは、赤坂氷川神社、麻布氷川神社、渋谷氷川神社、文京区千石の簸川(ひかわ)神社のほか、古書には今井の盛徳寺、羽根田村、萬年寺山云々とあるのですが、この三社がよくわかりません。麻布氷川神社は戦災で本殿、社務所等を消失しましたが、宮神輿、神輿倉、神楽殿、手水舎は難をのがれ昔の面影を今に伝えています。
 宮神輿は千貫神輿と言われる大きなもので、両側に車輪が付き牛が引いたそうです。最近では昭和初期に一度だけ渡御の記録があるそうです。秋の例祭の時には神輿倉が開けられ見ることが出来ますが、牛に引かれた宮神輿の雄壮な渡御を見たいものですね。

神楽 また、神楽殿でお神楽も奉納されます。お神楽は、神座に音楽や舞いを奉納し疫病や災厄除けを願ったり豊穣への祈りや感謝を捧げるためのものでした。今年の秋祭りには是非ご覧になっては如何でしょうか。(神楽写真拡大)

絵図  右の版画(部分)は天保三年
(1832)の祭礼の様子です。御祭礼番付と書かれたこの図では、太鼓、榊、幡、そして各町の山車が続きます。壱番宮下町、南日ヶ窪町・三番叟の山車、弐番本村町、仲町・鍾馗の山車、引き物、手こまい、世話人の人数等々が細かく書かれています。三番本村町上の町・牡丹石橋の引き物、五番三軒家町・猩々の山車、六番宮村町・金太郎、熊の山車、山姥山賊の引き物と続きます。氷川神社十七町の山車引き物が延々と続き最後に神輿一座の列が描かれています。これらの各町の山車、引き物、人形は殆どが戦災で焼失しましたが、本村町に貴重な一体が残され保存されているそうです。古い伝統文化の継承、守っていきたいものですね。           版画拡大
 セーラームーンのお社がこんなに歴史ある神社だったこと、町の誇りですね。

2008.6.5.

 


★ヒマな店番に疲れてネットサーフィン、「赤い靴を追いかけて」と題したブログに行き着いた。結構大きなスペースで書かれているのですが、幾つかのミスがあるのが気になりました。それでも、私が追いかけてきた「赤い靴」を否定されたものではないという意味では、ほっとしています。北海道テレビの記者だった現 北星大学教授の菊地寛先生の「赤い靴をはいていた女の子」がベースになっていることは明らかなのですが、菊地先生が7年の歳月をかけて調べ、今広く知られるようになったこの「赤い靴の女の子」のお話を、「・・・私なら、きっと、6年もかけずに、1/10のコストで1ヶ月程度で発掘できるとは思う。」と書かれている のは如何なものでしょうか。まだ像が出来ていない青森県鰺ヶ沢に像があると思いこんでいること、横浜、日本平、麻布十番、留寿都、そして鰺ヶ沢ではなく小樽に創られた像をすべて商業主義といっていることは少し間違っていないでしょうか。麻布十番のきみちゃんに関わってきた私は、きみちゃんを商業的に見たことは一度ありませんし、街のみんなも同じ思いでしょう。だからこそ、赤い靴のチャリティーは自然発生的に生まれ、20年という永い時間を歩き続けることが出来たのではないでしょうか。 このブログには「・・・さて、違和感を体感するために、私が歩き始めたのは、まだ時折、雪も降る頃からだった。まず、麻布周辺を歩く。最近、募金の累積が1000万円となったきみちゃん像のあたりには、あまり感じるものがなかった。」とも書かれています。何も感じないのもまた感性なのでしょうか。そして、「・・・募金の元締めの洋品店のご主人は、もの優しそうな方なのだが、逆に紳士過ぎて洋品店の経営が心配になってしまう。」 と続きます。これには何とも返す言葉がありません。「元締め」という言葉遣いもまた情けない思いがします。誰もが気軽に書くブログに目くじら立てることもないのですが、「6年もかけずに1ヶ月程度で発掘できる」というその人が、青山墓地にあるきみちゃんのお墓を探すのに3回も足を運んでやっと見つけたと書 いていることがおかしいですね。ゼロからはじめる難しさ、或いはゼロの存在に気が付くことの難しさをあらためて感じたブログでした。 蛇足ですが、紳士過ぎて経営が心配?いいですね 。あくどく儲けて生き続ける商売なんて、したくもないですね。優しそうな方に見えましたか?いいですね。息子がまだ7、8才の頃 「男の子は強くなくてはだめだよ。強いってことは優しいってことだよ」 と禅問答みたいな会話をしたことを思い出しました。まだ幼いこどもとの会話です。優しそうに見えましたか?でも 、こんなことを書く強さ?も何時かネットサーフィンでここまでたどり着いたら感じて欲しいですね。

2008.5.16.

 

★「十番だより」5月号に寄稿しました。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 4 ─

榎本健一さん、音丸さんとちょっと古い話題が続き、ローリエさんってすごくお歳?と思われそうなので今月は少し若々しくセーラームーンと麻布十番について。ついこの間のように新しい話題と思ったのですが、セーラームーンの母体となった「コードネームはセーラーV」が雑誌「るんるん」に掲載されたのは1991年7月、雑誌「なかよし」に「美少女戦士セーラームーン」の連載がスタートしたのが1991年12月ですから、もう17年も経っているんですね。そうするとあの頃、十番中学2年生14才だった月野うさぎことセーラームーンは、今31才のおばさん?これじゃ夢がなくなりますね。
登場人物の月野うさぎ(セーラームーン)、水野亜美(セーラーマーキュリー)、木野まこと(セーラージュピター)の三人は十番中学2年生14才、愛野美奈子(セーラーヴィーナス)は芝公園中学、ちびうさ(セーラーちびムーン)は麻布十番小学校、火野レイ(セーラーマーズ)はT.A女学院、そして地場衛(タキシード仮面)は私立元麻布高校となっていますね。十番中学校は当時の城南中学校(現六本木中学校)、麻布十番小学校は南山小学校、T.A女学校は東洋英和、元麻布高校は麻布高校がそれぞれモデルでしょうか。今地下鉄の4番出口のところにあった十番商店街の広告塔もそのまま絵になっていました。マクドナルドになったパチンコ・クラウンはゲームセンター・クラウン、一の橋公園、網代公園、仙台坂上バス停等々麻布十番周辺の風景がアレンジされて登場しました。そして火野レイが巫女をしていた火川神社の拝殿は元麻布の氷川神社の拝殿そのもののようでした。
麻布氷川神社どうしてこんなに麻布十番がセーラームーンに登場したのでしょうか。原作者の武内直子さんは芝公園にあった共立薬科大学(現慶應義塾大学と合併)の学生時代、また大学卒業後半年間慈恵医大病院に勤務していた頃、麻布十番付近に居住していたからと言われています。特にセーラームーンを描き始めた1991年から1992年にかけて十番商店街の永井薬局さんのマンションに住んでいました。商店街の集まりで永井薬局の山地さんに「今売り出し中の漫画家です」と紹介され、恥ずかしそうに挨拶されていた武内直子さんを覚えています。元麻布の氷川神社は知る人ぞ知るセーラームーンの「聖地」として多くのファンが今でも参拝に訪れるそうです。
その氷川神社は天慶五年(942)の勧請、一本松の松木をご神木とし、旧町名に宮村町、宮代町、宮下町、鳥居坂町等といった社に関連した地名を見るように麻布の総鎮守府として、また江戸氷川七社の一社として崇敬されてきました。戦災に遭遇しましたが千貫宮神輿、神楽殿、手水舎は難をのがれ、また本殿も再建され、幾つもの大使館に囲まれた国際色豊かなお屋敷町のお社として広く人々に崇敬されています。神社におまつりしてある毘沙門天(港七福神)はめずらしく、勇気と財福寿を授け与える神さまとして信仰され、秋祭りには神楽殿でお神楽も行われます。もしかして宮司が夢だった巫女の火野レイ(セーラーマーズ)に遇えるかもしれませんね。

2008.5.7.

 

ユニセフ礼状

5月1日 
日本ユニセフ協会よりカードに添えてお礼状が届きました。

 『永きにわたる麻布十番商店街
 「赤い靴のチャリティー」様のご支援に心よりお礼
 申し上げます。
日本ユニセフ協会 団体・組織事業部 副参事 二見 武』


と書かれています。(クリック拡大)

2008.5.3.

 


赤い靴★赤い靴の女の子「きみちゃん」のチャリティー、今年も平成19年度分として40万円をユニセフに送ることが出来ました。大勢の皆さまのご協力にあらためて心よりお礼申し上げます。
世界の恵まれない子どもたちのためにとチャリティーを始めたのは、きみちゃんの足元に置かれた18円がスタートでした。平成元年2月28日、雨の火曜日でした。彫刻家佐々木至さんの手でパティオ十番に建てられたき
ユニセフマークみちゃんの像、その日の夕方誰かきみちゃんの足元に置いてくれた18円の浄財は19年の歳月をかけて大きなチャリティーに育っていました。今年までの累計は1083万円。1円、5円、10円、100円と、小さな、そして、とても、とてもきれいなお金が積もり積もって1000万円を越えました。世界の子どもたちのためにどれほど役立っていることでしょうか。ほんとうにありがとうございました。
 どうかこれからもご協力下さいますよう、あらためましてこころからお願い申し上げます。

赤い靴の女の子「きみちゃん」のチャリティー  世話係 山本 仁壽

2008.4.21

 


★ 2リットルの下剤を2時間で飲むのはきついものです。内視鏡の検査、経験した人にはこの苦しさがわかると思いますが、何度やっても慣れるわけもなく検査のためとはいえつらいものですね。飲み始めて一時間もすると下剤が効いてトイレ通いが始まります。もう何も出ない、お腹の中からっぽという状態で ないとはっきりした映像が撮れないわけですから、2リットルの下剤も仕方ないのでしょう。一年毎の節目の検査は、腸の内視鏡、胃カメラ、腹部CT、エコー、血液検査と続きます。その最初の検査が内視鏡検査でした。小腸から大腸に入ってすぐのところ、上行結腸に患部があったのでカメラは大腸のほぼ終点まで入れられ、そこから戻りながら検査していきます。「ここが手術でつないだところですよ」と医師の声、自分の腸の中を映すモニターを何もありませんようにと祈る思いで見ていました。ところどころでシャッターを切られると、もしかして何かあったのかなと心配になるものです。時間は15、6分だったのですが、長く感じられました。「お疲れさま、終わりましたよ。ポリープもなかったし、きれいでしたよ。大丈夫」。着替えをしながらどっと疲れが出てきました。大腸ガンの手術から5月で丸5年になります。5年何もなければ大丈夫ですよと言われた節目の5年です。まずひとつクリア、まだ検査は残っていますが、先ずはおおもとの大腸をクリアしたことでほっとしています。検査を待つ部屋の壁に貼られたポスターに、「40才を過ぎたら検査を受けましょう、早期発見で大腸ガンは助かります」と書かれていました。みなさんも早めの検診で健康に過ごしたいものですね。

2008.4.2

 

★「十番だより」4月号に寄稿しました。だんだん筆無精がひどくなってきたようです。

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 3 ─

音丸さん 先月号エノケンさん(榎本健一さん)の写真に写っていた女性は、コロンビアレコードの音丸さんです。エノケンさんと同じ麻布十番の出身です。明治39年(1906)麻布箪笥町(現六本木一丁目辺)の履物屋の一人娘として生まれた音丸さんは本名永井満津子さん。生家の履物屋は麻布十番に移転し現在の十番郵便局の辺りで商っていました。小さいときから美声で、常磐津、日本舞踊、橘流筑前琵琶、春日派小唄と芸達者な娘さんだったようです。ご近所の民謡の会に出席して、乞われて披露した民謡の勘の良さと美声が絶賛され、昭和9年(1934)リーガルレコードから本名で「草津湯も
み唄」を、テイチクから「泪の京人形」を吹き込んでレコードデビューします。小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅などの芸者歌手が一世を風靡していた頃で、芸者と同じく小唄や端唄を歌わせても遜色のない歌手として下駄屋のお内儀である彼女がスカウトされ、この年9月正式に契約を結んだコロムビアから本名で「おけさくづし」「主は国境」でデビューします。芸名「音丸」は同年に吹き込んだ「君は満洲」からで、その由来は「音は丸いレコードから」という洒落から音丸さんです。翌昭和10年(1935)の「船頭可愛や」が大ヒット、「下田夜曲」「博多夜船」とヒットが続き一躍アイドルになります。デビューが28才で主婦というのも、今では考えられませんね。「下駄屋の姉御!」というファンの掛け声に「よくご存知」と返す腹の据わったアイドル?だったようです。
 その音丸さんは昭和12年(1937)に十番稲荷神社の前身末広神社に狛犬を寄付しています。写真は戦災を免れ、今も十番稲荷神社にある狛犬を昭和27年(1952)2月に復興したときのものです。後ろの社も鳥居も小さく質素なもので、狛犬が大きく見えますね。
音丸さんは数多くの民謡を世に出していますが、「五木の子守唄」もその一つです。美空ひばりさんがまだ美空和枝の芸名のとき、音丸さんの前座歌手をつとめていて地方巡業中にバス事故にあったことはよく知られています。その音丸さんは麻布十番の下駄屋の娘さんでした。

2008.3.30.

 


★何も書かないで一月、早いですね。また「十番だより」3月号に寄稿した原稿でごまかし・・・。(*^・^*)

DISCOVER JUBAN   麻布十番再発見  ─ 2 ─

 日本の喜劇王「エノケン」こと榎本健一さんをご存知でしょうか。1970年に65才で亡くなっていますから、若い方はご存じない方も多いかもしれませんね。戦前戦後を通じ100本以上の映画に出演し、人気絶頂期には、「エノケソ」、「土ノケン」などと名乗る偽物が全国各地を廻り活躍したそうですから、その人気ぶりがわかると思います。映画からテレビ時代に移っても喜劇会の重鎮として後進の育成に努め、植木等、三波伸介、萩本欽一など高度成長期以降の日本の喜劇俳優に大きな影響を与えています。最晩年には、「自分のペーソスに似ている」と持ち歌などの芸を坂本九に譲ると公言していました。そのエノケンさんと麻布十番との関係は。
 エノケンさんは青山の生まれですが幼い頃に母を亡くし、少年期を父親、義母、5人の女姉妹と麻布坂下町12番地(現麻布十番2-13)で過ごしています。 「武蔵野せんべい」というおせんべい屋さんでした。かなりわんぱくだったようで、 笄小学校、東町小学校、南山小学校、麻布小学校に通い、何度もご両親は学校から呼び出されたそうです。

十番稲荷神社鳥居落慶 戦後、戦災で焼けた末広神社、竹長稲荷神社は十番稲荷神社として合併し今の場所に遷りましたが、鳥居を造営するにあたり麻布十番出身の市川産業株式会社(後のクラウンガスライター)社長市川要吉さんとエノケンさんのお二人の寄付で鳥居は建てられました。写真は1959年4月26日落慶記念のものです。エノケンさんと市川要吉さんの持つ額には「慶祝 奉納大鳥居 皇太子御成婚記念」と書かれています。 天皇陛下と美智子さまのご成婚記念です。鳥居の後ろの社殿も総檜造りで新築されたばかりで、今の社殿とはずいぶんとちがいますね。エノケンさんについてはもっともっとスペースが欲しいのですが、麻布十番は日本の喜劇王エノケンさんが育った街ということを知って下さい。写真中央二列目市川さんの後ろに立つ女性、どなたかわかりますか。来月はこの女性と麻布十番について書いてみます。

2008.3.2.

 


★このサイトと同じ “DISCOVER JUBAN” 「麻布十番再発見」というタイトルで「十番だより」2月号に寄稿しました。できればしばらく続けたいと思っています。十番だよりでも読めますが、せっかくだからここにも載せちゃおう、です。十番だより原文のまま、手抜きですね。

DISCOVER JUBAN 麻布十番再発見 −1−

“DISCOVER JUBAN” このタイトルを見てどこかで見たことがあると思う人、失礼ですがそこそこのご年配の方ではないでしょうか。JRが国鉄と言っていた頃の1970〜「美しい日本と私」のサブタイトルで行っていた旅行キャンペーンが“DISCOVER JAPAN”です。同じ頃テレビでは永六輔さんの曲にのせて「遠くへ行きたい」という番組もはじまりました。国鉄各駅には“DISCOVER JAPAN”のロゴの入った駅スタンプがおかれ、スタンプ集めも流行っていました。1978には山口百恵さんの「いい日旅立ち」がキャンペーンソングに。あれからもう30年、懐かしいですね。そういえば 安部晋三前総理も「美しい日本」をうたっていましたが、国鉄の「美しい日本と私」のコピーはノーベル文学賞を受賞した川端康成が、記念講演のタイトルとした「美しい日本の私」をアレンジしたのだそうです。“DISCOVER JAPAN”は今、JR西日本が“DISCOVER WEST”とアレンジして使っています。そんなこんなで“DISCOVER JUBAN” 「美しい街・十番と私」、麻布十番再発見、と、まあ、タイトルばかりは大きく見栄をはって、私が歩いてきた大好きな街、麻布十番の街の様子を思い出しながら書き始めることにします。
 十年一昔と言います。戦前の麻布十番はなどとさかのぼらなくても、十年前、二十年前の十番でもその変遷に驚くことがあると思います。それほど前でなく、たった一年、去年のことでももう忘れていることも多いのではないでしょうか。この一年でどれだけのお店が閉店し、それ以上に新しいお店がどれだけ開店したことでしょうか。

パティオ十番設計図 麻布十番のほぼ真ん中に「パティオ十番」という広場があります。「パティオ」スペイン語で中庭、建築用語としては古くから使われていたようで、今では何の抵抗もなく使っていますが、この広場が出来たとき「パティオ十番」のネーミングには「舌をかみそう」などとクレームもありました。パティオ十番が出来る前、戦前はここにも何十軒もの家が建ち、お店もあったのですが、戦後は区画整理のミスのようにここだけが道幅の広い道路でした。1983年、麻布十番商店街は東京都モデル商店街の指定を受け、ここに多目的広場を造る計画をたてました。「道路が広場になるかヨ」「樹を植えたら店の看板が見えなくなる」「子どもが飛び出して事故になったらどうする」etc.etc. 関係官公庁の理解と協力を求めながら、何度となく話し合いの場を持ち設計図を描きなおし、麻布十番の未来をこの広場に託すような想いを込めて出来たのが「パティオ十番」でした。 1986年春の完成です。広場には六本のケヤキの樹が、左右の歩道には四本のトチノキが植えられました。
 このパティオ十番は、当時の建設省(現国土交通省)の「手作りふるさと賞」を受賞しています。建設から22年、ケヤキの樹も大きくなり、パティオ十番は麻布十番のコアになったのではないでしょうか。

2008.2.11.

 


★時間の速さは一定で、またその長さも万人に等しく同じはずなのですが、年とともに時間の速さ、長さは一定ではないと感じています。年令が加わるとともに、人を通過する時間は速く、短くなっていると思いませんか。このサイトを創り始めて8年、この時間も速かったように思うのですが、仕事の合間に、あるいは夜遅くにコツコツと作っていると同じ時間が短く感じられるのです。「いい年してよくやるよなぁ〜」「山本さんはヒマだから・・・」と揶揄されながら、「ヒマだから出来るんじゃないよ、私も一日は24時間。みんなが飲み歩いているときにマニュアル本を読んでいるのさ」と強がってきたものでした。それがこの頃、私の1日は24時間ないのかな、一時間が50分しかないのかなと時間の速さ短さを思うのです。気が付いたらこのコラムも一月が終わろうとしているのに、今年はじめて書いている。もう一ヶ月経ってしまったのか、書けなかった言い訳のようですね。ますます速く短くなるであろう時間を、今年も大切に使いながら健康に過ごせたらと、ちょっと遅れた年頭のご挨拶です。

2008.1.30.

 


賀詞   ねずみイラスト

今年もよろしくお願い申し上げます

仁壽生

2008.1.1.

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