店声仁語−12− ( 2007.1.〜 2007.12.31.)

店声仁語:目次・・・

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ほほえみ      狩野  誠

いそがしいときに
イライラするときに
くやしいときに
不安なときに

 


私はそっと
私にたずねる
あなたはいま
ほほえんでいますか
    ……と

ほほえみ読本

なかなかほほえめない自分がいます。いそがしいときに、イライラするときに、くやしいときに、不安なときに・・・、顔がひきつって、とてもほほえんでなんていられない自分がいます。でも、そんな自分に気がつかない人がほとんどなんです。自分はほほえんでいるつもりで・・・。

 


★一年の早さを感じながら今年も終わろうとしています。年末の風物詩のように各地の寺院から一年のほこりを落とす「お身拭い」の様子がテレビで映されますが、見るたびにもう少しましな掃除の仕方はないものかと思うのは私だけでしょうか。長い竹竿に付けられた笹の葉で大切な文化財の仏像のホコリを払ったり、大勢が一列に並んでいっせいに畳を棒で叩いて埃をだす大掃除の風景、今の時代に変ですね。見ているだけでよけいに埃っぽくなるのでは、仏様に傷が付くのではと心配になります。古い伝統の行事なのでしょうが、現代風にアレンジしてきれいに、清々しく、静かに新年を迎えたいものですね。
 今年も一年間ありがとうございました。よいお年をお迎え下さい。

2007.12.31.

 


★子どもがまだ小さいときにはクリスマスが近づくと、それとなく 「サンタさんに何か頼んだのか」 と欲しいものを聞き出していた。さすがに二十歳過ぎの大学生にそんなクリスマスは無用なのだが、イブの夕食の時冗談交じりのおとなの会話で聞いてみた。

 「今年はサンタさんに何か頼んだのか」
 「あっ、いけない、たのむの忘れてた」
 「そうか、残念だなぁ。もう間に合わないだろうね。何かたのみたいものあったのか」
 「まぁね、ビデオチューナーとブルーレイDVDチューナー」
 「そりゃぁ急に言われたも、サンタさん準備できないだろうね」
 「前もって言ったってサンタさんに断られたかもしれないよ」
 「どうして」
 「景気悪いんだろう、サンタさんだって」

サンタクロースを信じていた頃が懐かしい。それでも、こんな会話の出来ることをサンタさんに感謝したい今日この頃である。

2007.12.25.

 


★6年ぶりにアメリカから帰国した姪一家の次男坊ユータ君、同時多発テロの2001年9月アメリカ生まれ6才です。帰国して半年、すっかり英語を忘れたように日本語だけの生活になっているのですが、時々おかしな日本語になることもあるようです。ユータ君来年は小学校一年生、早々とランドセルを買ってもらったのですが、その時のエピソードが笑えます。気に入ったランドセルが見つかったのですが、あいにく品切れで取り寄せてくれることになったのですが、ユータ君納得がいきません。「なんでランドセル持って帰らないの〜」とだだをこね、「なんで、なんで」。店員さんも「ランドセルが入りましたらお電話さしあげますから・・・」「今日はランドセルないの、ランドセルが入ったら電話くれるって」。やっと帰ってきたそうです。後日、ランドセルを受け取りに行ったユータ君、また納得いきません。ランドセルを受け取って、まだ待っています。「ユータ君帰るよ」「電話は?」「えっ?」「電話は、電話くれるって言ったでしょう」。ユータ君、携帯電話がもらえると思っていたようです。日本語って難しいですね。

2007.12.16.

 
 

★姉が67才で急逝してもうすぐ一年です。時の早さを今更のように感じているのですが、家族にとっては時間が止まったままのような一年だったのではと思います。あの時、アメリカ・ミシガンで暮らしていた姪一家も、今は転勤で日本にもどり姉のいなくなった家で暮らしています。一周忌の法要に訪ねると、片付けのヘタだった姉の散らかった部屋がそのままあるようでした。「これでもずいぶん片付けたんだから」と話す姪が、その時の子どもの様子を話してくれました。姉が倒れたと電話があったとき、クリスマスの飾り付けにはしゃいでいた11才の長男がメモ帳に「ぼくは何もいらないからばぁばを助けてください・・・」と英語で書き暖炉にはりつけて、トイレにこもって泣いていたそうです。最近反抗期の長男ですが、そんなやさしい気持ちを持っていれば大丈夫かなぁと。6年間のアメリカ暮らしで日本の学校生活を心配していましたが、帰国して半年、子どもの順応ははやいものですね。地元の少年野球チームにもとけこんで、特大のホームランを打ったとよろこんでいました。なにも変わっていないような姉の家ですが、新しい仏壇がなぜか目立っていました。

2007.12.13.

 


小樽のきみちゃん★赤い靴の女の子 きみちゃんの5つ目の像が北海道小樽市に出来ました。小樽はきみちゃんのお母さん かよさんと義父の鈴木志郎さんが晩年をすごしたところです。二人が小樽のカトリック富岡教会の熱心な信者だったのが縁で、きみちゃんを囲んだ親子三人の像が創られました。11月23日の除幕式では参列したみんなで赤い靴の歌をうたい、「親子の像を見て、家族のきずなを感じてもらえれば」との思いを強くしたことでしょう。
 親子三人の像の計画は小樽より早く、鈴木志郎さんの出身地である青森県鰺ヶ沢町でたてられましたが、小樽に先をこされてしまったようですね。鰺ヶ沢の「赤い靴記念像建立協賛会」では2008年3月の親子三人像の完成をめざして募金活動をしています。ネットからも募金が申し込めますので、どうか大勢の皆さまのご協力をお願い致します。(上記協賛会クリックでリンクします) 6つ目のきみちゃんの像が一日も早くできますように。7つ目のきみちゃん像の計画が札幌でも進められています。
 麻布十番のきみちゃんの像が出来てから来年で20年です。

2007.11.26.

 


★十番商店街のM・ロマンのオーナー大村秀子さんは11月15日にボジョレー・ヌーボー・パーティーを開催、会場でユニセフへのチャリティーを呼びかけて下さいました。

ユニセフ貯金箱「一生懸命呼びかけたんだけれど、36,347円。少なくてゴメンナサイ」
「少ないなんてとんでもない、金額じゃなくて気持ちがうれしいです。本当にありがとうございました」。
「絵はがきも作っているの?これパーティー会場に持っていけばよかった」
「貯金箱もありますよ」

 M・ロマンさんの五店に私の手作りの貯金箱と絵はがきをおいて下さるそうです。心強い味方誕生って感じでした。大村さんは毎朝出社の時、パティオのきみちゃんに「おはよう!」 声をかけ募金に協力して下さっています。本当にありがとうございます。
きみちゃんのチャリティーと一緒に大切にお預かりして、来春一年分をユニセフに贈らせていただきます。

2007.11.18.

 


★朝から雨の土曜日、雨の詩を思い出していました。八木重吉作詞、多田武彦作曲 男声合唱組曲「雨」


 
 雨のおとがきこえる
 雨がふってゐたのだ 
 あのおとのようにそっと世のためにはたらいてゐよう 
 雨があがるようにしづかに死んでゆこう

 静かに降る雨の音を聞く八木重吉のこころを、あたたかく語りかけるような多田武彦の曲、メロディーが書けないのが残念です。明治大学グリークラブOBがひとりの女性のために歌うこの曲を、私も何度か聴き何度か共に歌っています。そして、何となく今日も雨を見ながら、雨の音を聞きながら思い出しています。
 夭折の詩人 八木重吉は幾つもの「雨」の詩を書いています。


 
 窓をあけて雨をみてゐると
 なんにも要らないから
 こうしておだやかなきもちでゐたいとおもふ



 
 雨は土をうるほしてゆく
 雨といふもののそばにしやがんで
 雨のすることをみてゐたい


 
 雨が ぼしやぼしやふってる
 にごり水が ぐんぐん ながれる
 いい あんばいだとおもふ
 のどのとこまで なんだかおしあげてくる



 
 雨がふる
 いいきもちだ
 すこし 死にたいようなきもするが
 雨はすきだからもっとふれとおもふ


 
 雨をみてると
 おどりたくなる
 花をかついで歌をうたわう


雨がふる
 
 雨がふる
 わたしのおもひもととのふてゆく
 ひとつの力をほしいとおもふ
 雨がふるように死のうとおもふ



 雨がふってゐる
 雨はふってゐるけれど
 すこしもきこえない
 雨はみえるきりだ
 雨をみゐると
 こころが かがやいてくる




 
 雨は
 庭のみづたまりに輪をつくってゐる
 ひとつの輪は
 ほかの輪にふざけて消える
 こうしてみてゐるとほんにたのしい

 わずか二十九才で 亡くなった八木重吉の病の床で見る雨は、その日その日の心を写しているように様々ですね。できるなら、いつも、「こころが かがやいてくる」ような、「おどりたくなる」ような、「 こうしてみてゐるとほんにたのしい」、そんな思いで雨を見たいものですね。

2007.11.10.

 


★新潟中越地震から今日で三年、時間の早さを違った意味で感じた一日でした。中越地震は東京でもかなり揺れたのですが、その時、私は大きな揺れを病院のベッドの上で感じていました。三年前、夏頃から原因不明の頭痛に悩まされていたのですが、それが硬膜下血腫によるものだとわかったのが10月半ばでした。10月20日に手術をうけ三日目、やっとドレインもとれてリハビリに廊下を歩けるようになったころでした。夕方、静岡から見舞いに来てくれた姉とベッドに横になったまま話していたとき大きな揺れがきました。病室は6階、かなり長い間大きく揺れていたのを覚えています。姉はとっさに点滴の薬を提げた支柱につかまっていました。車の付いた支柱につかまっても何の意味もないのですが、つかまるところがなかったと落ち着いてから二人で笑ってしまいました。あれから三年経ったのかぁ、あの時は手術で丸坊主になっていたなぁ。そう、25日の誕生日も病室だった、病室の夕食に小さなケーキと「お誕生日おめでとうございます」と書かれたカードが付いてき、何となくほっとしたことを思い出していました。健康であることを本当にこころからよろこばなくてはと、この三年の時間の早さを、また時間の長さを、あらためて感じた一日でした。支柱につかまって笑っていた姉は昨年末に急逝、あの笑い声が今も聞こえてくるようです。

2007.10.23.

 


京都駅ビル★時間が自由なようでそうでないのが商人、お勤めの人のように休暇をとるということはお店を閉めて出かけること、なかなか時間が作れない。その店番を家内に頼んで三十余年ぶりに京都ひとり旅。二泊三日の短い時間に出来るだけ多くの寺院を見ようと、少しおごって観光タクシーでまわることにした。紅葉にはまだ早いのと連休明けということでそれほどの混雑もなく、のんびりと三日で16寺院を見て まわることができた。京都駅ビル(写真→)の変わりようにはびっくりだったが、それほど違和感を感じなかったのは六本木ヒルズ、ミッドタウン等々東京の変わり様を見慣れているせいだろうか。少し横道にはいると昔ながらの京都の街並み、こんなところでこんなお店で商売が成り立つのだろうかと妙な心配をするのも商人の性だろうか、東京の家並みとは違う何かを感じながら車窓を見ている。ここにも、こんなところにもお寺があると、あらためて京都のお寺の多さに驚きながら、よく知られた寺院を選んで見ることにした。初日、三十三間堂、南禅寺、永観堂禅林寺、高台寺、二日目、二条城、金閣寺、龍安寺、仁和寺、銀閣寺、三日目、東寺、天龍寺、常寂光寺、あだしの念仏寺、落柿舎、祇王寺、建仁寺。よくばって先斗町、京極、新京極も歩いてみた。仕事を忘れての三日間と言いたいのだが、時折携帯に呼び出される便利さ不便さ。心の休養になったが、身体は少し疲れたように感じるのは、旅は若いうちに、元気なうちにした方がいいということなのだろう。 三十三間堂千手観音の前に立つ二十八部衆、大弁功徳天像のお顔立ちの何と優しいことかと印象に残った旅だった。

2007.10.17.

 


名月★月の話題が続きますが、今日9月25日は中秋の名月。東京でもきれいな月を見ることができました。すすきとお団子とお芋?そう、中秋の名月は「芋名月」とも呼ばれるんですね。旧暦8月15日の月が中秋の名月ですが、この日は毎年仏滅ってご存知でしたか。六曜(大安、赤口、先勝、友引、先負、仏滅)
の順番を決めるのは旧暦の月と日です旧暦の
   (月+日)÷6=商 ・・・余りN 
この計算で商は何でもかまいません。重要なのは「余りN」。この「余りN」と六曜の関係は次のようになります。
余りN=0のとき(割り切れたとき)・・・大安、N=1のとき・・・赤口、N=2のとき・・・先勝、N=3のとき・・・友引、N=4のとき・・・先負、N=5のとき・・・仏滅となります。ですから旧暦8月15日は、(8+15)÷6=3・・・余り5となり、仏滅になります。同じように計算すると毎年大安の日もありますよ。旧暦3月3日ひな祭りは、(3+3)÷6=1・・・0で大安です。こよみって面白いですね。 (参照:こよみのページ)

2007.9.25.

 


月食★夏休み旅行の報告その2です。8月28日天気予報では雨、山歩きもあきらめていたのですが、八島湿原に着いてみるとそれまでかかっていた霧がさっときえて薄日の差す天気に。湿原を一周して草花を楽しみ宿に。ひと風呂浴びてほっとしたころ雨が降り出しました。皆既月食を楽しみにしていたのですが雨ではとあきらめていました。夕食をすませ外を見ると雨がやんでいます。もしかしてと外に出てみました。高原の空に皆既月食を見ることが出来ました。8時25分ころの月です。実際にはもう少し赤く、暗く見え、左下から光が戻りはじめたところでした。東京では雷雨だったようですね。幸運の月食をしばらく見上げていました。

2007.9.2.

 


マツムシソウ★まつりが終わって遅い夏休み、久しぶりに蓼科の山を歩いてきました。心配していた天気もまぁまぁ、山はもう秋のよそおいでした。草原の花も今年はなぜか少ないように思いましたが、それでも沢山の花をカメラにおさめてきました。
ウメバチソウ
 マツムシソウ(写真左)、アキノキリンソウ、ハクサンフウロウ、ワコモコウ、アカバナシモツケ、ツリガネニンジン、ウメバチソウ(写真右)、ヤナギラン、オオバギボウシ、オミナエシ、ヨツバヒヨドリ、ヤマウド、ヤマハハコ、シシウド、マルバハギ、ノアザミ、タチフウロウ、アサマフウロウ、コウリンカ、エゾカワラナデシコ、ウスユキソウ、オトギリソウ、コオニユリ、キキヨウ、シラヤマギク。名前を忘れた花々も多く 、少しボケタかなと思いながらも楽しい散策でした。帰化植物のアレチマツヨイグサやヒメジョオンが増えてきたのも気になりますね。

2007.9.1.

 


夜景★ペルセウス座流星群が見られるかもしれないと夜中の屋上に出てみた。新月で月明かりに邪魔されることはないのだが、あらためて都会の夜の明るさに驚いた。右の写真は昨夜12時頃であるが、ビルの窓の明かり、東京タワーの照明がなければ、青空に浮かんだ真昼の雲のように見えませんか。しばらく北東の空を見ていたがあきらめて部屋に戻った。息子が小学5年生の時の獅子座流星群を思い出していた。11月、屋上で毛布にくるまって星空を見上げていた。
「あっ、見えた。お父さん、見た?お母さん、見た?」
「ほら、また」。
 ほんとうに流れるような流星群だった。初冬の屋上の寒さを忘れて見上げていた星空、懐かしい思い出である。その息子も二十歳を過ぎ、
「今日流星群が見られるそうだよ」
「あ、そう」。
大人になったのか私が歳をとらないのか、寂しいペルセウス 座流星群の夜だった。

2007.8.13.

 


★遠くから赤い靴の女の子「きみちゃん」を訪ねて来られた方が続いた。北海道札幌から7月27日、札幌山鼻地区に記念像を計画されている会の一人で山鼻新聞編集委員の永喜多宗雄さんが、そして今日30日には同じ札幌から日本近代文学会員の北村巌さん夫妻が訪ねてこられ、それぞれ一時間近くも熱心に赤い靴談義をしていかれた。「きみちゃん」を通して母と子の愛の絆を、親子の愛の大切さを語り伝える想いは皆さん共通して熱く、決して像を観光や宣伝に使ってはいけない、作りっぱなしではいけないと話される。麻布十番のきみちゃんが18年も途絶えることなく続けている子どもたちへのチャリティーに惜しみない賛辞の言葉を下さる。一方で、きみちゃんのお話を7年の歳月をかけて調べ発表された菊地寛さん(現北星学園大学教授)の説に誤りがあると指摘し出版する方がいるという。しかし、きみちゃんのお話に学問的正確さは必要でしょうか。100年も前にわずか9才でひとり寂しくなくなったきみちゃんは、今も9才のまま世界の子どもたちのために歩き続けているその事実に間違いはなく、世界の子どもたちのために母と子の愛を、親子の愛の絆の尊さを訴え続けている事実に何の誤りもないことを、あらためて語り合ったのでした。北村さん夫妻がきみちゃんの眠る青山墓地にも行ってみますと帰られたのと入れ違いに、母娘二人連れの方が入ってこられました。
アンネ像 「 2月にきみちゃんにかけられた赤いマフラーのことを新聞で見たのですが、あのマフラーはどうなりましたか」
 「赤いマフラー、とってありますよ。」
 「よかった、あの時メールをしたものです」
 「あっ、アンネ・フランクの写真を添付されたメール?確か西宮の赤松さん?」
 「そうです、覚えていてくださいましたか」
ご主人が撮った西宮市甲陽園の聖イエス会アンネのバラの教会の庭に建つアンネ・フランクの像のDVDを持ってきて下さいました。バラに囲まれたアンネの足もとには、
 「世界と人類のために働きます アンネ・フランク」 (I shall work in the world and for mankind. Anne Frank) とかかれていました。15才でベルゲン・ベルゼン強制収容所で亡くなったアンネ・フランクもまた、世界と人類のために今も15才のまま世界中で歩き続けているのですね。きみちゃんにも、きみちゃんのチャリティーにも多くの理解者がいてくれると、遠方からの励ましに心強く、また、心和む一日でした。遠くからのご来街、そしてチャリティーへのご協力ありがとうございました。

2007.7.30.

 


★まだ飛べない雀のヒナが、どこからきたのか歩道のすみで鳴いていた。親雀か仲閧フ雀が十数羽も電線にとまり、人通りもこわがらずにヒナのところに飛んで きては戻る。女の子が小さな箱を持ってきて、踏まれないようにヒナを入れて少し離れて見守っている。近くに巣らしきものは見あたらないのでもどしてやることも出来ない。じっと見ている女の子に、「かわいそうだね、でも、どうしようもできないね」 「うん」「野生のヒナは家で育てるの がとても難しいから飼うことが出来ないね、うまく巣にもどれるといいんだけれど」「まだ飛べないみたい」「そうだね」。電線や軒先にとまった雀たちも同じ ような会話をしているのか、せわしなく鳴いていた。ビルの屋上の方が安全かな、そう思って少し大きめの段ボール箱を、半分屋根のようにふたを残してヒナを入れ屋上に置いて みた。女の子と屋上を見上げていると、親鳥たちもそれに気づいたのか屋上に飛んでいった。やれやれ、そこで餌をもらって元気になったら巣に帰れるかなと思ったのもつかの間、ヒナは 屋上から落ちるように羽ばたきながらパティオに。「歩道よりは安全かな、困ったね、どうすることもできないね」 「うん」。女の子は何度も振り返りながら帰っていった。すり餌で育てたという話しも聞くが、難しいだろう。親鳥たちがこんどはパティオのけやきに集まって鳴いている。日が落ちてオリヅルランの鉢の影にヒナがいた。 翌朝早く、女の子がパティオのあちこちを見ていた・・・・。

2007.7.28.

 


小樽 親子像デザイン画★六本木のホテルアイビスで先日、『「赤い靴」きみちゃんアカデミー』という催しがありました。会への参加を呼びかけるリーフレットには、『童謡「赤い靴」の女の子きみちゃんの短く悲しい生涯から、親子、家族の絆、子どもの人生 をみんなで考えてみる、そして、そういう輪を広げていきたいと考えています。』と書かれていました。会の主催者から「きみちゃんについて、子どもたちのためのチャリティーについて話してください」と、きみちゃんについてのいわば語り部役を頼まれ、その会に参加してきました。きみちゃんに興味を持 ち参加された方は15名、女学校の先生、主婦、大学生、少年院の教官、大学教授等々様々で、それぞれすでにきみちゃんのことはかなり詳しく調べている方でした。麻布十番と赤い靴の女の子きみちゃんとの出会いから話し始め、像の完成、チャリティーのはじまり、広がり、今、 そしてこれからと私の知っているきみちゃんについて話し、きみちゃんを通して出会った大勢の方々との交流の輪について、またそこから学んだいろいろな思いを話してきました。最後の質問の時、少年院の先生からこんな質問をうけました。「今、五つ目、六つ目 、七つ目のきみちゃん像がそれぞれきみちゃんゆかりの地、北海道・小樽、札幌、青森県・鰺ヶ沢に計画されているそうですが、小樽と鰺ヶ沢の二つが今までのきみちゃん像と異なり親子三人の像と うかがいました。何故、親子三人の像なんでしょうか。親子の絆、親子の愛情を訴えるのなら、きみちゃんの母・かよさん、義父・鈴木志郎さんにはきみちゃんとは義理の妹になるお子さんもいる とうかがっていますが・・・」というものでした。一瞬 ドキッとしました。新しい像が出来ることを、きみちゃんを知ってもらい、母子の絆の大切さを知ってもらう機会とよろこんでいましたが、親子三人の像をそのような観点から見ることをしませんでした。おそらく小樽、鰺ヶ沢の 親子像建設に関わっている方々も同じではないでしょうか。こんな応えを返したのですが、皆さんはどうお思いでしょうか。
 「親子三人の像が出来ることを単純によろこんでいました。きみちゃんのお母さん・かよさんは後に鈴木志郎と再婚して、きみちゃんの義妹にあたる「のぶさん」「その さん」、子どもたちに恵まれていますね。そうですね、親子、家族の絆を考えると言うのでしたら、確かに三人の像でなく家族五人の像になりますね。でも、こう考えたらどうでしょうか。のぶさん、そのさんたち妹は、ご両親のかよさん、志郎さんとずっと一緒でした。開拓農場、郵便配達、炭坑夫、樺太で 伝道師としての布教活動と厳しい生活だったようですが、親子一緒に苦労をともにし、また楽しみもともにして過ごしたのではないでしょうか。きみちゃん一人が、三才で宣教師 ヒュエットさん夫妻の養女にだされ、五才で孤児院に預けられ九才で一人寂しく亡くなっていたのですから、今、親子三人仲よくならんだ像を創って、きみちゃんゴメンねと言いながら亡くなったかよさんの思いを、親子の絆の大切さをきみちゃんを通して伝えていく。私は親子三人像の建設委員ではありませんが、そのように思って頂ければきっときみちゃんもかよさんも志郎さんも、よろこんでくれるのではないでしょうか」。(カットは小樽の親子像の予定デザインから)

2007.7.11.

 


コリドラスパンダ★息子が小学校一年生の頃飼い始めた熱帯魚、一時は水槽も3つになりいろいろな魚を飼ってみた。高価な魚ほど飼育が難しく、グッピーのように何もしなくても繁殖するものもいた。息子も大きくなり水槽の世話はもっぱら小生の仕事、水槽も一つ減り、二つ減り、今は75cm水槽一つにごくごく平凡にネオンテトラ、ピンクパールグーラミー、コリドラスジュリー、コリドラスパンダが泳ぎ、水草の緑に癒しを感じている。その小さな水槽で、先日二匹の稚魚を見つけた。いつの間に卵を産み、いつの間に孵ったのか、透き通るような1cmほどの小さな稚魚を見つけた時はびっくりだった。グッピーのように胎生で次々に増える魚と違い、今飼っているのは胎生ではない。どの熱帯魚の子供なのかと興味深く見ていると、1週間ほどで親がわかった。コリドラスパンダだった。1ヶ月半過ぎた今、もう2cmくらいになった稚魚は親の縮小コピーよろしく元気に泳ぎ回っている。親子の写真を撮ろうとカメラを構えるのだが、なかなか親子同時に現れてくれない。やっと撮った写真がこの写真だが、小さな水槽の中でもシャッターチャンスが少ないのだから、「動物写真家の岩合光昭さんはすごいなぁ〜」と変なところで感心している今日この頃で ある。このコリドラスパンダの子、よく見ると親と同じようにヒゲがあるのが面白い。パンダの子だからパン
?いやパンかもしれない。

2007.6.28.

 


★2000年、地下鉄南北線、大江戸線の二路線が開通、2003年六本木ヒルズ竣工、2007年ミッドタウン竣工と麻布十番周辺の環境は大きく変わってきた。来街者が増え、人通りが多く街は賑わっているように見える。確かに飲食店は賑わっている、一方で物販店は相変わらずの不況の中で喘いでいると言ってもいいだろう。物販店にとって景気回復などという言葉は空々しくさえ聞こえるこの奇妙な麻布十番の現況で、何の兆しもなく老舗名店が突然閉店したのに驚かされて半年も経っていない今日この頃、相次いで閉店セールの店が現れている。土地建物を売却して転居するという店、入居していた建物が売却され転居を余儀なくされた店等々である。それぞれにそれぞれの事情があっての事であろうが、あそこも、あそこも、えっ!あそこもっ!そんな感じでビルが売られ建て替えられていく今の麻布十番、これからどうなっていくのであろう。一の橋 、古川の川向こう、三田地区でも大きな再開発が2、3始まったようだ。都心に残された伝統ある商店街として、日常の生活のにおいのする買い回りの商店街としての麻布十番商店街にあって、もっと頑張らなくてはいけない物販店が不況に負けてあきらめかけているように見える。地下鉄の開通にあわせて進めてきた商店街近代化のコンセプトは、「人の来る街」ではなく「人の住む街」だったはずだが、新しく 建て替えられるビルには人の住むスペースはなく、飲食店ばかりの雑居ビルだという。そんなビルの建設をただ見ているだけしかできない街は、飲食街歓楽街になり人の住めない街になるのだろうか。これも時代と見ているだけしか出来ないのだろうか。もっともっと頑張らなければいけない物販店のお中元セールが、インターネットでのアンケートと聞いて・・・ 、何を考えているんだぁ・・・。 日頃お買い物をして下さるお客様に何もなく、全国ネットでわずかな景品をばらまいて、これがセール?どこか違う、何か違うんじゃないかなぁ。そろそろ我が家も閉店を考えた方がいいのか もしれないな・・・。

2007.6.22.

 


★珍しく机に向かって勉強中の息子

  「おっ、勉強か、雨降らないか、どうかしたのか」
  「たまには勉強もするよ。明日、試験だもん」
  「おいおい、明日か。一夜漬けの勉強か」
  「まぁね、俺、キリギリスだから」
  「何だ、それ?」
  「アリにはなれないってこと」
  「・・・?そういうことか」
  「おやじだってキリギリスだったろう」
  「まぁな・・・」

2007.6.9.

 


★「きみちゃんの絵はがき下さい」 中年の男性が二人。
  「どちらからですか」
   「大阪です。2月だったか、赤いマフラーのきみちゃんの新聞読みましたよ」
   「麻布十番のコアになっていますね。こういうものを大切にする街っていいですね」
   「そう、わざとらしく作られたコアでなく、長い時間をかけて自然に育ったコアって感じがいいですね・・・」
  「ありがとうございます」
何となく照れくさい思いで聞きながら、絵はがきを渡していました。遠くからきみちゃんを見に来られ、きみちゃんが麻布十番の核になっていると言われる、きみちゃんを大切にする街をいい街と言ってくれること、うれしいですね。

 パブリックアートを取りあげた月刊 「チャイム銀座」6月号(発行所 (株)和光) にこんな事が書かれている。
  「・・・周辺環境との調和を考えて制作されるパブリックアートだが、作品が完成し、特定の場所に設置されたからといって、その役割が完了するわけではない。美観を維持するためには十分な保守管理が必要であり、地域住民の理解も大切だ。パブリックアートは人々に愛されることで、その場所に定着するのである。その好例が、東京の麻布十番にある少女像『きみちゃん』だ。童謡『赤い靴』の主人公をモデルとする『きみちゃん』像は1989年(平成元年)の除幕式の時から人々の共感を呼び、周囲には常に花が飾られ、美しく整えられている。地域社会にしっかりと溶け込み、その場のイメージを高めている優れたパブリックアートとなっている。・・・」

 麻布十番にはきみちゃんの他に、12の「微笑のモニュメント」や「雲」「布」「碧翔」などの大きなモニュメントもある。どれもが美しく整えられ、地域社会に溶け込み、イメージを高めているだろうか。モニュメントの周りには自転車が置かれ、傷つき、灰皿代わりになっているものさえある。モニュメント近くのお店が掃除をするとか、設置された場所が不都合なら他の場所に移設するとか考えなければいけないのだが。「やっと許可 を得て設置した。そう簡単に移設できないし予算もない」と 何もしない返事が聞こえてくるようだ。でも、やってみなくては。担当者を決めて保守管理をやらせるのではなく、自発的自主的にされてこそ優れたパブリックアートと言われるのだろう。その意味で、このような言葉を照れくさく思うのは私だけでなく、もっと多くの 商店街の人が恥ずかしく感じて欲しいもので ある。

2007.5.27.

 


★「新しいドライバー買ったんだ、これがいいんだなぁ」
  「クラブじゃないだろう、腕だろう」
  「いやぁ、今のクラブはいいですよ。ボールが曲がらないし、よく飛ぶし」
  「気のせいだろう、だれも見ていないよ」
  「ほんとだって、今度のコンペ、スクラッチでいいですよ」
  「あのね、ひとまわりも若いんだから年寄りからハンデなんか取るなよ。スクラッチで当然」
  「ハンデあげましょうか」
  「いりません、あとで泣くなよ。新しい腕でもさがしておいで」

 こんな遣り取りをしてコンペを楽しみにしていたのが昨日のようでした。検査入院と聞いていた彼が、入院先の病院で急逝したと聞いても信じられませんでした。すぐにお宅に伺ったのですが、 眠っているような顔を見て涙がとまりませんでした。
  「ここ2年ぐらいケンカしていたんだ」
  「知っていました」 と奥さん。
 やっと修復しかけて、また家族ぐるみで旅行もできるかと思っていたのに、どうしたんだ、何をしていたんだ、何で気がつかなかったんだ、若すぎるよ、まだまだ若すぎるよ、まだ57才じゃないか。
 火曜日のコンペ、プレー後のパーティーで彼の思い出をメンバーに話しました。
  「6番のショートホール、ワンオンしてよろこんでいた彼を思い出しながらパッティングしていました。新しいドライバーの飛びを見られなかったことが残念、でも負けなかったと思うけど・・・・」  と。            合掌。

2007.5.18.

 


パティオ十番★パティオのけやきも新緑におおわれて、すがすがしい青葉の季節となりました。一本だけ芽吹きの遅れたけやきの樹があるのがわかりますか。樹にも個性があるようですね。街ゆく人は半袖の人も長袖の人も、やはり個性ゆたかですね。けやきの樹にカラスが巣を作り始めて、もう形ができかけてきました。木の枝だけでなく、どこから持ってきたのか針金のハンガーも使っているようです。卵を産むと攻撃的になるので、今のうちに撤去してもらおうと麻布支所に電話しました。それから、「歩道のトチノキが一本枯れたようですよ、他の3本はもう緑ですが一本だけ芽吹く気配のないトチノキがありますよ。この樹は個性じゃなくて本当に枯れたようですよ。これも見て下さい」。パティオが出来て20年、小さかった樹も4階の窓の高さまで大きくなったのに残念ですね。麻布十番の街路樹はブロックごとに異なった 種類の樹が植栽され、季節毎に異なった趣の緑が楽しめます。 カツラ、クスノキ、ケヤキ、コブシ、トチノキ、ヤマボウシ、ハナミズキ、モミジバフウ、周辺にはイチョウ、もみじ、さくらも見られますよ。(街路樹のページをご覧下さい)
 

2007.5.2.

 


★人の嫌がる幹事とまでは言わないが、何の会にしても幹事というのは大変な仕事だと思いませんか。うまくいってあたりまえ、ちょっとミスると幹事が悪い、幹事何やってるんだ 等々言いたい放題いわれるのが幹事ですね。そんな幹事を、商店街のゴルフコンペ「元気会」の幹事を 36年間も続けてきた奇特な人がいます。ほぼ月一のコンペのコースを予約し、メンバーに連絡し出欠を取って組み合わせを作り、急な欠席がでると組み合わせの変更をコースに連絡する、往復のバスの手配、プレー後のスコアの集計、パーティー等々当日のコースでもけっこう大変なのがコンペの幹事 です。ですから、一般にコンペの幹事は優勝者とブービーが次回のコンペの幹事になったり、順番に一、二年に一度のわりで幹事になったりではないでしょうか。そんな幹事を36年 、360回も続けている奇特な人、実は私です。このサイトのコンペのページでも紹介していますが、36年、360回のコンペの記録をずっと録ってあります。 大変なはずの幹事ですが、こんなに長くやっていると、それほど苦にもならなくなるのも不思議ですね。
 メンバーのほとんどが地元麻布十番なのですが、連絡ミスがないように毎回往復ハガキで連絡します。30年前はワープロもパソコンもなく、連絡のハガキも組み合わせのプリントもみんな手書きでした。もちろん家庭にコピーなどありませんし、コンビニにもコピーはありませんでしたから、急な欠席で組み合わせが変わると大変でした。まるでコンペのためのようにワープロを買い、コピー機を買い、FAXを買い、パソコンを買い、 36年もよく続いたものだなぁと我ながら思っています。始めた頃はメンバーが皆先輩で最年少20代後半だった私も、もう還暦をとうに過ぎ、初代会長から今は会長 も六代目に、最高齢81才、最年少50才のコンペの平均年令は66才を越えています。それでも月一のコンペを楽しみにしてきたのですが、現会長とのちょっとした考えの違いから幹事をやめることに、退会することにしました。今更大人げないと自分自身イヤになるのですが、持って生まれた性格は仕方ないですね。
 小さな考え方の違いと書きましたが、メンバーのために36年も続けてきた幹事をやめるのですから、もしかしたらコンペそのものが続かなくなるかなと思いながら退会を決心したのですから、私自身にとって決して小さな違いではないことは、メンバーのみんなもわかってくれると信じています。これからは健康のために、スコアにこだわらない楽しいゴルフを、心から楽しめる者同士でプレーしたいと、そう思う今日この頃です。

2007.4.23.

 


★「きみちゃんの赤い靴のチャリティー」、今年も4月16日にユニセフへ43万円送ることができました。赤い靴の女の子「きみちゃん」の小さな像が彫刻家佐々木至さんの手でパティオ十番に建てられ たのは平成元年2月28日、火曜日で定休のお店が多く人通りの少ない雨の日でした。 うれしくて何度となく傘をさしてきみちゃんを見に行きました。夕方、きみちゃんの足もとに小銭が置かれているのに気がつきました。数えてみると18円。これがきみちゃんのチャリティーの始まりでした。 それから1 9年、チャリティーの総額は、阪神大震災義捐金に70万円、スマトラ大震災・津波の義捐金に60万円を含め、今月で累計1043万円になります。
 野口雨情の童謡「赤い靴」のモデルだった「きみちゃん」は、実は横浜の波止場から船に乗れませんでした。不治の病のため麻布十番にあった孤児院に預けられ、明治44年9月 15日 9才の短い生涯を閉じています。きみちゃんのような不幸を繰り返さないように、母と子の愛の絆を願って創られた「きみちゃん」の像に託されたチャリティーは、世界の 恵まれない子どもたちのために毎年ユニセフに送られてきました。1円5円10円という小さなお金の、しかしとてもきれいな貴重なお金の積み重ねが19年か赤い靴かって達成できた大きな金額です。
 これからも世界の子どもたちのために「きみちゃんのチャリティー」は続けていかなければならないと思っています。皆さまの温かいご支援に心からお礼申し上げますとともに、これからもよろしくご協力下さいますようお願い申し上げます。

2007.4.20.

 


★20余年ぶりだろうか、知人が夫婦で訪ねてきてくれた。「変わりましたね、十番」という彼はその頃 某銀行麻布支店の営業マン。よく店に寄ってくれ、いろいろ話しをしたものでした。「今度結婚します」と彼女を連れてきたのが昨日のようでした。関西に転勤になり、四国へ移り、今は京都に住んで子供も三人、仕事は・・・etc.etc.懐かしい思い出話に時間を忘れて話していました。某銀行は今は名前も変わり取引もない のですが、20年も前の小さな取引先を懐かしんで訪ねてくれた夫妻の気持ちがうれしい。この20年、地下鉄二路線が開通し、六本木ヒルズができ、今また 新美術館、ミッドタウンと街は大きく変貌し、老舗の閉店、新しい業態の店の開店と街はまだまだ変わり続けている。今の時代に限らず、こうして街も住む人も変わっていくのだろう。私自身、いつかそれを懐かしむ立場になっているのかもしれない。区議選がはじまって、聞き慣れた名前に混じり聞き慣れない 新人候補の名前の連呼が聞こえる。ここも また大きく変わる時が来ているのかもしれない。

2007.4.15.

 


★さくら満開の4月1日、我が家も二年遅咲きのさくらの開花によろこんだ一日でした。入学式、私は行きませんでしたが家内は大学構内の庭園を見たいと理由を つけて息子に付いて行きました。父母席は少なく会場には入れなかったようですが、外の大型スクリーンで式の様子を見て感激して帰ってきました。
 「まるで小学生の入学式だな」
 「キッシンジャー、ほら、ニクソンの補佐官だったキッシンジャーが名誉博士号授与で来ていて講演してた」
 「英語 わかったのか?」
 「愛ちゃんは わからなかった」
 「・・・?」
 「ハンカチ王子も・・・」
 「・・・!」
もらってきた学生証がずっしり重く、また耀いて見えました。まだまだ子離れできないかな、世に親バカの種は尽きないものですね。

2007.4.2.

 


パソコンのバグ★パソコンがいきなり真っ暗になって、勝手に再起動し始めた。一瞬、ウィルスにやられたかなと思ったが、思い当たるものがない。仕方ないから立ち上がったらウィルスチェック、ディスクチェックをしてみようと待っていると、今度はいきなり黒い画面のERROR SCREENが出てきた。経験したことありますか。WindowsはMSの製品ではあるが、日本のメーカーが作って日本で販売しているパソコンなのに何で英文なんだぁ〜って感じでした。
”Check to make sure any new hardware or software is properly installed. If this is a new instillation ask your hardware or software manufacturer for any windows updates you might need. Run the driver verifier against any new (or suspect) driver. If that doesn’t reveal the corrupting driver, try enabling special pool. ・・・・・・”
セーフモードで立ち上げるしかないなぁと、マニュアル本を引っ張り出して何とか復旧したが、原因がエラーメッセージに書かれたハードでもソフトでもウィルスでもないことに気がついた。停電である。前夜に瞬時ではあったが二度の停電があった。その時も勝手に再起動していたが、何かダメージを残したのだろう。パティオの水銀灯が全部消え、再点灯するのにしばらく時間がかかっていたが、周辺の商店や家庭の照明には影響ない瞬時の停電だった。あの時、もし大切なデータを作っていたらバックアップもなく消去していただろうと思うとパソコンに頼りすぎる怖さをあらためて感じた。それにしてもパソコンやメールのエラーメッセージ、日本語でわかりやすく書いてもらえないものだろうか。

2007.3.28.

 


貯金箱に手紙★朝、きみちゃんの植木の水遣り。ふと貯金箱を見ると白い紙が見える。いたずらに紙を入れられたかな、そう思って貯金箱のふたを開けてみると、「ご苦労様です」と書かれ折りたたまれた便せんでした。開いてみると

「初めまして、秋田から月一度の声楽のレッスンに通っており いつもきみちゃんの像の前で冥福を祈っております。今年5月13日 横手市で、母の日コンサートを開催することになり、「赤い靴」をうたうことになりました。母の想い、子の想いを感じながらきみちゃんの生い立ちなど紹介しつつ 心をこめて歌わせていただきます。少しですが、これからの時代を担う子供に役立てて下さい。               H19.3.17.

秋田県横手市   E.T

千円札が2枚小さくたたまれていました。今月末に平成18年度分としてまとめてユニセフに送らせていただきます。ありがとうございました。コンサートのご盛会を心からお祈りいたします。   ( お手紙クリック拡大)

2007.3.17.

 


★時折感じる腹部の具合の悪さ、どこがどうなんだと聞かれてもうまく言えないのだが、何となく違和感がある、膨満感ともちがう、痛くはないが何かある。そんな感じがしばらく続いて主治医に尋ねるのだが、「そんなこともありますよ」と簡単に言われる。一年に一度の大きな検診を早めてもらって、今日は腹部CTとエコー、血液検査をしてきた。大腸ガンの手術から3年9ヶ月、再発クリアの目安5年までまだ少しある。不安がないと言えば嘘になるが、息子の受験という大きなストレスも無くなったし、あとは運動不足の解消、食生活、生活習慣の改善に気を配り健康を確保したいものである。病院の帰り道、日本たばこの会社の前を通ると、建物の外に作られた喫煙場所で何人もの日本たばこの社員がタバコを吸っているのを見かけた。何か妙な感じで彼らを見てしまった。健康が一番ですよ、タバコやめたらって言ってやりたい思いだった。来週は胃カメラ、そのあと大腸の内視鏡検査と今月は検診が続く。

2007.3.7.

 


★三月三日の最後の一輪は残念ながら咲きませんでした。補欠、おそらく1点差に泣いたのでしょう。補欠からの繰り上げ合格はほとんどゼロですから、今日、決まっていた学部の入学手続きをしました。高2の三学期に突然勉強放棄、登校拒否こそしませんでしたが、卒業できるのかと心配した高3の一年、塾にも行かない浪人一年、そして、やっと前向きになり塾通いを始めた浪人二年目でした。この一年よく頑張ったと親バカですが誉めてやりたい思いです。最後の補欠は、あらためて1点の重さを教えてくれるものでしょう。これからの大学4年間にこの3年の苦い思いを生かして、あと1点の大きさを見つめ直してもらいたいと思う親バカを卒業したいのですが・・・。

2007.3.5.

 


★息子の二浪が決まった昨春 「桜は何時か咲きますよ」と友人に言われました。二年間咲かなかった桜が、今年は二月に咲き始めました。一月のセンター試験に始まった一連の試験でしたが、一輪、また一輪と咲き続け、昨日ほぼ満開になりました。あんなに苦しんだ三年間がうそのように、遅咲きの桜が開花したようです。ほぼ満開というのは、あと一輪の開花予想が三月三日なのですが、もう満開といってもいいのでしょう、三年ぶりの春爛漫を楽しみたい今日この頃です。

2007.2.26.

 

★きみちゃんの絵はがきを買いに入ってきた青年、

「覚えていますか、何年か前にNHKのテレビで高校生 IT 王決定戦っていうのやったのを・・・」
「ずいぶん前だね、覚えているよ」
「僕、あの時優勝した者です」
「え!優勝は確か大阪の清風高校だったかな」
「そうです、高2でした。今日は就職活動で上京したので懐かしくて訪ねてきました」

 NHK衛星第2で2001年8月17日放送した「 I T 王決定戦、高校生大会」。高校生3人一組の出演で決勝まで残った二組の決定戦。問題の一つに、「1989年2月28日、ここで洋品店の山本さんが18円を見つけました。ここはどこ?」という難問が出題されました。高校生達はパソコン、携帯などI Tを駆使して、答えの「きみちゃんの像」までたどり着き、そこに置かれたパスワードから次の問題を解くという難問でした。若い人たちのI T力にびっくりしたのを覚えていました。 優勝した大阪清風高校のその時の高校生のひとりでした。今は京大4年生という青年は懐かしそうにきみちゃんを見て帰っていきました。テレビ番組の瞬時の出会いを忘れずに訪ねてくれたこと、うれしいですね。就職もきっと大丈夫でしょう。

2007.2.14.

 

★こんなメールをいただきました。

こんにちは。
アンネ像 今朝(2月4日)、新聞を開くときれいな赤い色がパッと目にとびこんできました。「きみちゃん」のマフラーの色でした。
 昨年の12月14日、私たち母娘はきみちゃんに会うことができました。「唱歌・童謡ものがたり」やBSフジの「東京の散歩道」できみちゃんが渡米せず9才でひとり逝ったことを知り、この像を訪れたいと思っていたのです。いちばん嬉しかったのは、山本さんのように優しい小父さんに見守られていることがわかったことです。
 「今のきみちゃんは幸福よね」 「ほっとしたよね」 といいながら坂を下っていったことです。
きみちゃんはたくさんの方の心を動かしているのだと今日の記事を読んであらためて思いました。六本木ヒルズ、東京タワーと14日は見てきましたが、今なお印象に残っているのは、それらではなく、きみちゃんの中空を見つめるまなざしです。きみちゃんのようなまなざしで空を見つめている子どもがきっと世界中には多くいるに違いない。そんなことを娘と思いました。
 我が家の近くにアンネ・フランクの像があります。5月、像を取り囲んでバラが咲き誇ります。その頃こちらに来られる機会があればご覧いただきたく存じます。     お元気で      

兵庫県西宮市  M&E.A

きみちゃんにマフラー 朝日新聞2月3日朝刊の社会面に紹介された「きみちゃんの赤いマフラー」の記事、関西では翌4日に掲載されたようです。昨年末にきみちゃんの絵はがきを買いに寄られ、少しお話しした母娘さんが 新聞を見てわざわざメール下さったものでした。この日、Aさんのように記事を見て遠くからきみちゃんを見に来られた方が何人か寄って下さいました。明治44年9月、9才で亡くなったきみちゃんは、今もまだ9才のまま世界の恵まれない子どもたちのために歩き続けているようですね。子どもたちのためにも、この赤い靴のチャリティーはみんなで続けていかなければと思うのです。
 
(上の写真はAさんのMailに添付されたアンネ・フランクの像、左は赤いマフラーのきみちゃんです)

2007.2.7.

 


★朝のニュースで1/2成人式というのをやっていた。10歳の子どもたちが未来の夢を話していたのだが、これを見ていた今年成人の息子との会話

 「2倍成人式もやればいいのにね、40歳のひとの夢なんての」
 「それも面白いね、3倍成人式もあるぞ、還暦の夢か。でももう夢をなくしているかもね」
 「そんなことないよ、どこかのサイトで100歳のひとに聞きましたってのがあった」
 「100歳の未来への夢か」
 「ほとんどが仏様になりたいだって。でも中にはスチュワーデスになりたいなんて夢を捨てきれないひともいるんだって」

いつまでも夢は持ち続けたいものですね。

2007.1.31.


 


★息子がセンター試験に出かけた午後、難病で寝たきりの長野の友人M.Kさんからメールがきました。M.Kさんは昨春お母さんを亡くされ、一人っきりで闘病生活をしています。読んでいて何故か涙がでてきました。閉店間際の1階のお店から、6階の息子にこんなメールを書きました。

◇長野のM.Kさんからきたメールを転送します。読んでごらん。試験のことはあとで聞くから。

山本さま、山本家にとって重要な日、いかがお過ごしでしたか。

私は今までと違う正月が、瞬く間に過ぎています。生活の時間割も、食事の内容も大きく違っての日々です。
ことに食事は、七草粥、小豆粥を初めて食べさせていただくなど、自分にとっては毎日がご馳走の連続です。

ヘルパーさんに頼っての生活のため、パソコンに向かう時間はままなりません。
人工呼吸器の使用時間(ベッド上)が一日16時間、残りの8時間が生活の時間です。
この間で、食事やその他をこなすのは忙しいです。
この時期はワープロの頼まれ事もあり、メールをご無沙汰するのが辛いです。
何とか早く返事を書きたいと思っていますので、よろしくお願いします。

お姉さんのこと、息子さんのこと、山本さんご自身のこと、と
たくさん「書かなければいけないこと」があるはずなのに
新年初のメールが、相変わらずになってしまいました、ご容赦ください。

「大丈夫」と信じて頑張りましょう。

帰ってきたおまえを見て、ほっとしました。おまえの顔にほほえみがあったから。センターがだめでも、これからが本番だと思って頑張りなさい。決してあきらめることなく、最後まで目標をめざして行きなさい。M.Kさんが16時間も人工呼吸器を付けていることを今日初めて知りました。残りの8時間を大切に生きている、そう思うと涙がでてきました。ヘルパーさんの作ってくれる食事をご馳走だと言う言葉に涙がでてきました。おまえも私もお母さんも24時間使えるじゃないか。
「大丈夫」 
この言葉は去年M.Kさんを励ますつもりで書いた私のメールの言葉でした。今日は病気のM.Kさんに励まされてしまった。そう、大丈夫。おまえも大丈夫、今年は大丈夫。私もガンの再発なんてない、大丈夫。そう、大丈夫だ。24時間、有効に使って目標を見失わないように、私も努力する、おまえも努力しなさい。       仁生

息子の試験を、私の体を気遣って、年の瀬に67歳で急逝した姉への私の思いを心配してくれるM.Kさん、「大丈夫」 。お互いに「大丈夫」と信じて今年も頑張りましょう。

2007.1.20.

 


★アメリカでは冥王星が惑星からはずされてから、冥王星(Pluto)=降格するという意味で、降格させられるはPlutedと使っているそうだ。アメリカ流に今度の不二家事件を使えば、不二家=期限切れと言うのだろうか。そんなニュースを見ていると、このところ利上げにからんで日銀の福井俊彦総裁がやたらと登場する。いつの間にかうやむやのなってしまった福井俊彦総裁問題、これを動詞にすると、「日銀総裁する」または「福井する」=「居座る」だろうか。替わるにも人材がいないのかわからないが、まだまだ景気回復など下々には感じられない今日この頃、しっかりした判断をしてもらいたいものである。でないと今度こそ国民の声でプルートされるかも。

2007.1.17.

 


絵はがき★「きみちゃんの絵はがき下さい」
 「2枚で100円です、ユニセフに寄付しています」
 「パンフレットも頂けますか、このお話聞くとかわいそうで・・・」
 「どちらからですか」
 「大阪からきました」
きみちゃんの境遇に何か特別な思いがあるのでしょうか、話しながら目頭を押さえてうつむき加減に出て行かれた年配の女性でした。「ありがとうございます、大切にお預かりして子どもたちのためにユニセフに寄付します」、後ろ姿にそっと話しかけました。

2007.1.14.

 


凧の絵★お正月の一週間は早く感じませんか。一年の計を考えるまもなく、もう松があけてしまいました。今年初めてこのサイトにアクセスされた方、実は昨日までこのサイトのホームページやINDEXページにも門松や正月の飾りがあったのですが、今日からは飾りを外してあります。門松は年末に飾り、歳神を迎え正月6日(あるいは7日)にこれを外すことから、この日までを松の内というのだそうです。門松、注連飾り(しめかざり)、お年玉、鏡餅、お節料理、本当に早い一週間でした。そして七草、「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ、これぞ七草」。正月7日には、この七草を炊き込んだ七草粥を食べると無病息災で一年を過ごせるとか。皆さんは七草がゆを食べましたか。近頃では「七草がゆ茶漬け」なる便利なふりかけもあるようですね。  さぁ、今年もまた皆さんとともに健康で元気に過ごせますように、よき年でありますように祈ってやみません。

2007.1.8.

 

あけましておめでとうございます

ことしもよろしくお願い申し上げます

平成十九年元旦

麻布十番未知案内
        山本 仁壽

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