◆麻布の名前 |
阿佐布、安座部といわれた古い集落が始まりだったようです。初めて歴史に記録されたのは意外に新しく、永禄2年(1559)と言われています。その後、元禄時代(1688〜)ころから今の「麻布」が使われるようになったようです。多分このあたりで麻の布を作っていたのでしょう。
アイヌ語のアサップル(向こう側へ渡る?)を語源と言う方もいるようですが定かではありません。古く縄文までさかのぼって考えるより、むしろ単純に
鎌倉時代か
室町時代、或いは江戸時代
のころ
この辺りで麻を作っていたと考えた方がいいのかもしれません。 |
◆地形 |
台地と谷地の境界に位置する坂の多い地形を生かして
、寺社仏閣が多く造られるようになりました。江戸時代、人口の増大で江戸の町は拡大していきますが、特に明暦
の大火以降、大名屋敷や武家屋敷が麻布周辺に増えてきます。
明暦の大火は明暦3年(1657)1月18日から20日にかけて江戸市街の大部分が焼け、焼失町数八百町、死者
十万八千人
余といわれる大火でした。
蛇足ですがこの大火は、本郷の本妙寺で娘の供養のために燃やした振袖が舞い上がって火元となったと言われ、振袖火事の名で知られています。江戸開府以来の大火で江戸城本丸,二の丸をはじめ豪壮な邸宅はすべて焼失したといわれています。 |
◆十番の名前 |
何度かの大火で拡大する江戸の町は、
延宝3年(1675)古川の改修工事にも着手します。その改修工事の十番目の工区が麻布十番の名の由来と言われています。
古川が大きく曲がる一の橋には荷揚げ場が造られ、商業の集積場としての役割をになうようになりました。
享保14年(1729
)には、芝にあった馬場が一の橋に移転、十番馬場と呼ばれていました。また、馬市も立ち仙台駒の取引が行われるようになると、馬方の宿や茶屋もできはじめます。これらの商業活動と古くからの麻布山善福寺の門前町としての賑わいとがあいまって、麻布十番は発展していきます。
1800年代には、夜店も立ち始め、商業の地として盛んになっていきます。 |
◆なぜ古川? |
先日、地元南山小学校の3年生の子供たちが「どうして古川っていうの?」って調べてくれました。前記の江戸時代の古川の改修の時、新しく護岸工事などをして出来たところを
新しく掘って出来た川と言うことで「新堀川」といったんだそうです。新堀川にたいして昔の川を「古川」と言うようになったと子ども達に教わりました。旧町名に「新堀町」と言うのがあります。 |
◆幕末
◆老舗 |
安政6年(1859
)、善福寺にアメリカ公使館がおかれます。善福寺には初代公使ハリスの記念碑が昭和11年
(1936)に建てられています。
このほか、由緒ある寺社に各国の使節団の宿泊所がつくられました。麻布周辺には、今、多くの大使館や学校がありますが、江戸時代の外国人居住が国際都市麻布の原点になったのかもしれませんね。 |
江戸時代からの老舗
塩田(一力すし)
寛永17年・1640 (2003閉店)、更級(そば)
天明4年・1784、酒井陶器店(せともの)
文政8年・1825、(2009閉店)、柴田石材店(石材)
文政8年・1825、山市(油)
天保2年・1831(閉店)、中村屋(ざる)
嘉永元年・1848、永井薬局(くすり) 嘉永3年・1850、村野(畳)
文久元年・1861 (2003閉店)、石崎(綿)
文久3年・1863 (2007閉店)、豆源(豆)
慶応元年・1865
、大坂屋(質)
慶応元年・1865、小林(玩具)
慶応3年・1867、
老舗
一欄をご覧下さい。 |
◆明治
◆老舗 |
文明開化、古川の河川敷は埋めたてられ鉄道馬車がはしるようになりました。それにともない古川沿いには工場がつくられ、工業化がすすみます。つい最近まで、古川に沿って三の橋、古川橋、四の橋、東町、竹谷町(現南麻布1丁目)辺りには多くの町工場がありました。今も何軒か頑張っていますよ。
明治41年(1908)には青山〜天現寺〜一の橋まで鉄道馬車が走り、その後は市電、都電として庶民の足になっていました。 |
明治時代からの老舗
蟹江(荒物)
明治2年・1869、溜屋(質)
明治3年・1870、近江屋(家具)
明治10年・1877、すなが
(呉服)明治20年・1897、紀ノ国屋(砂糖)
明治33年・1900、栗原(仏壇)
明治35年・1901、エチゴヤ(洋品)
明治39年・1905(2003閉店)、西本(洋品)
明治42年・1909、ツルヤ(酒)
明治42年・1909、山本(足袋)明治44年・1911、紀文堂(せんべい)
明治44年・1911、甲陽堂(印章)
明治44年・1911(2008閉店)。
老舗
一欄をご覧下さい。 |
◆大正
◆老舗 |
坂道の多い地形は台地の上にお屋敷町をつくり、低地部は零細複雑な利用がされていたようです。商店街には花町(芸者町)もでき賑わっていました。
大正12年の関東大震災では、下町は壊滅的な被害を受けましたが、山の手、麻布十番周辺は比較的被害も少なく、人口流入により街はさらに大きくなっていきます。震災の復興景気は寄席、演劇場、活動写真館(映画館)、白木屋(デパート)等々がつくられ時代の先端を行く東京屈指の盛り場になっていったのです。 |
大正時代からの老舗
大黒屋(履物)
大正元年・1912、小野(ござ)
大正4年・1916、岩田屋(鰹節)
大正6年・1918八百徳(青果)
大正6年・1918、白水堂(カステラ)
大正11年・1923、小幡(くすり)
大正11年・1923、黒田(レコード)
大正12年・1924、
老舗
一欄をご覧下さい。 |
◆昭和 |
関東大震災から復興した銀座の繁栄、1929年の昭和大恐慌、日中戦争等々の影響で、麻布十番の繁栄にもかげりが見えてきます。そして
第2次世界大戦が始まります。
昭和20年
4月15日と5月25日(1945)の
2度の空襲で麻布十番は全域焼きつくされてしまいます。一本松の高台からは
芝増上寺の山門や浜松町
、田町の省線(JR線)が見えるくらいの焼け野原になってしまいました。 |
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◆戦後 |
見渡すかぎり焼け野原でした。私が疎開先の新潟県
西頚城郡能生町から帰ってきたのは昭和23年3月でした。ちょうどゼネストの日、田町から十番まで母に手をひかれて小さな足で歩いてきました。何もない町に小林玩具店の大きな象の絵の看板が今でも頭に浮かびます。
そんな中で復興の動きが始まっていました。 |
映画館
十番倶楽部
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・昭和21年(1946) |
麻布十番マーケットと称してバラックのお店が出来る。 |
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復興都市計画、区画整理、 |
・昭和24年(1949) |
麻布十番地域復興会商業組合 |
・昭和26年(1951) |
麻布映画劇場、麻布中央劇場オープン |
・昭和27年(1952) |
十番倶楽部建設、十番寄席の復活
(昭和30年閉鎖、名画座に) |
・昭和30年(1955) |
映画館も4館営業していました。
○麻布 映画劇場(写真左)、
○麻布中央 劇場(写真右)、
・・・現ピーコックストア、1965閉館
○名画座 ・・・現十番会館、1965閉館
○日活館 ・・・現グルメシティー 、1963閉館 |
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・昭和32年(1957) |
麻布十番商業協同組合(法人) |
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「十番だより」創刊 、2011.1月号で第670号です。1986〜1996まで10年間は私が編集していました。 |
・昭和33年(1958) |
東京タワー完成。 |
・昭和34年(1959) |
アーケード建設
(1991.6.撤去)、皇太子殿下ご成婚 |
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十番稲荷神社神社落慶 エノケンさん・市川要吉さん寄贈の鳥居完成 |
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縁日・・・5日、15日、25日には大黒さまの縁日が、9日、19日、29日には十番稲荷神社の縁日が開かれました。
縁日の日には花火が打ち上げられました。音だけの昼間の花火ですが、落ちてくる花火の丸いカラを追いかけたものでした。 |
・昭和38年(1963) |
麻布十番商店街振興組合(現在の組織) |
・昭和39年(1964) |
東京オリンピックのこの年、地下鉄日比谷線開通、首都高速道路、新幹線開通 |
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この頃、一の橋を通る都電も4系統ありましたが、その後次々に廃止され都バスに替わっていきます。 |
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4番・・・五反田〜銀座 (1967廃止)
5番・・・目黒〜永代橋 (1967廃止)
8番・・・中目黒〜築地 (1967廃止)
34番・・ ・渋谷〜金杉橋 (1969廃止) |
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縁日
納涼まつり |
・昭和41年〜43年
(1966〜1969) |
戦後の焼け野原の中でも楽しまれていた昔ながらの盆踊りを「大名おどり」として盛大に開催、大名行列も行われた。 |
・昭和43年(1968) |
「大名おどり」から街中が縁日の「夜店の夕べ」へ。そして「納涼大会」から現在の「納涼まつり」に |
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街路灯が水銀灯に |
・昭和45年(1970) |
納涼まつりに青年会のステージ十番とお化け屋敷登場 |
・昭和48年(1973) |
十番会館完成 |
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お中元セールを「バンバンセール」に命名、CIのはしり |
・昭和50年(1975) |
キャッチフレーズ「微笑の街」 |
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納涼まつりと十番稲荷神社を結び、神社に「蛙の御守」を復活、蛙のTシャツをつくる |
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歳末売り出しを「ビッグスマイルセール」に。これもCI |
・昭和51年(1976) |
ローリエヤマモトビル竣工 |
・昭和52年(1977) |
スプリングセールはじめる |
・昭和55年(1980) |
納涼まつりに国際バザール、写真コンクール、ディスコ |
・昭和56年(1981) |
シンボルマーク
(公式だとこだわっているダサいマーク) |
・昭和57年(1982) |
アイラブ十番のマーク
こっちの方がスマートで人気あるんだけど非公式だからダメなんだって、HPも同じですね。 |
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神社に蛙の石像完成。 |
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◆現代
ハード・ ソフト
パティオ十番 |
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◆ひとこと |
一覧表で書くとわずかなスペースで終わってしまいますが、何か一つのことをやるのでも大変な時間と討論とエネルギーが要るものです。近代化を例にとってもそうです。古いアーケードを撤去するのに10年近い時間をかけて討論されました。北海道から九州までアチコチの商店街を見て歩きました。歩道のタイルひとつ決めるのに岐阜県の多治見まで工場見学に行きました。街路樹の選択、街路灯のデザイン等々きりがありません。地下鉄誘致もそうです。納涼まつりもそうです。歳末、中元の売り出し、節分、スプリングセール、花祭、秋祭り、酉の市、除夜の鐘、雪まつり・・・・、どれほど多くの時間をかけて討論し作り上げてきたことでしょうか。
商店街経営の難しさ、街を経営すると言うのもおかしな表現かもしれませんが、一般の会社組織のようなピラミッド型ではない平坦な組織体系にうかがえます。それぞれが社長の集まりで
、自己主張の強いものばかりをまとめるのは大変なことです。波風の立たないように、「まぁいいじゃないか」とか、
「みんな一生懸命にやっているんだから・・・」「みんなの意見を聞く、広く意見を聞く・・・」なんて人気取り的なトップでは街は発展しないと信じます。
一生懸命やったってダメはだめ、広く意見を聞いたって多数決で何でも決めるのではなく、時には多数決をひっくり返す決断が必要なこと、
逆に少数意見
に耳を貸す器量、判断力、指導力が強く求められると思います。
長年親しまれたCI、お中元セールのコピー「バンバンセール」は麻布十番の「バン」と「バンバン当たる」の楽しいネーミングでしたが、ただ長年使われたからと言うだけで変えられました。「夏のセール抽選券付き」に。
歳末セールのネーミングは微笑の街にかけて付けられた「ビッグスマイルセール」でしたが、「○○年ありがとうセール」になってしまいました。多数決の弊害ですね。昨年どおりの行事ではなくと言っても、意味のない変更は後退でしかありません。ここにも商店街経営の難しさが感じられます。
「微笑の街」「アイラブ10バン」「バンバンセール」「ビッグスマイルセール」「パティオ十番」
「微笑のモニュメント」「赤い靴の女の子・きみちゃん」「カエルのお守り」・・・麻布十番ならではの、麻布十番らしいものばかりです。もっと自信を持って発現してもらいたいですね。もちろん「麻布十番」という名前を大切にして、自信と誇りを持って
麻布十番らしい街づくりを続けて欲しいものです。単なる昨年どおりの行事ではなく 、新しい時代にあった新しいソフトを考え
なくてはなりません。街の近代化は終わったのではなく、その時々の時代を見据えた街づくりを、麻布十番らしい街づくりを休みなく続けてい
かなければならないのです。地下鉄が出来、ハード面での近代化が一段落した今、何故か過去を見て、後ろ向きにあら捜しをしている、新しい企画が出てこないように思えてなりません。
一見民主的な多数決は、常に正しい判断だとは限らないことに気がついて欲しいのです。
近代化とは単に巨大ビル化することではありません。人の住める街づくりだと思います。本当に心休まる人の住める街、それはコンクリートで固めた巨大ビルではないはずです。アメリカのテロを見るまでもなく、あのようなビル街は人の住む街ではないと思います。 大きな資本に飲み込まれて、人の住む街が街でなくなって いくのを、「仕方ない」「まぁいいじゃないか」で終わらせてはいけないと思います。
麻布十番は、日常のにおいのする、ごく普通の心温かな気持ちの触れ合う街づくりを続けていかなければならないと思います。
年寄りの愚痴のようになってしまいましたが・・・。
2003 |
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◆
「麻布十番の歴史」つづく ◆ ( 年毎にもう少し詳細に書く予定ですでしたが、書けねぇ〜〜なぁ (^_^)v )
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